地域のため池を探ろう!

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母子大池(もうしおおいけ)

2020年09月09日


(1)所在地  三田市母子字横谷及び東谷(旧小野村)

(2)型式と規模
  型式   土堰堤
  堤長   115m
  堤高   18.7m
  満水面積 10.9ha
  貯水量  70万立方メートル

(3)かんがい地域とその面積   
 母子大池は三田市母子(旧小野村))に在り、当市の西北部の3ヵ村(本庄村、中野村、貴志村)にまたがる農地約60ha余をかんがいしている三田市で一番大きいため池である。

(四) 築造の経緯
 旧国鉄福知山線広野駅の東北方約2kmのところにある末野は、以前は山林原野が主でその面積250haに及ぶ平坦な丘陵地で草生または、小松林で覆われていた。
 この台地に水利の便が得られるならば、水田として最適の土地であることがわかっていながらも、大正初期までは手つかずで放任されていた。
 いや全く手をつかずに見捨てられていたものではなく、古くは三田藩(九鬼候)において代官に命じ母子のカチヤ谷にため池を造りその水を青野川に放流しこの水を上青野から末野まで用水路を新設して開墾地へ導水する開墾計画を立てた。
 ところが、新築したカチヤ谷池の水がやっと末野まで来たとき、ため池の水が干し上りかんがいの目的を達しえなかったので代官は責任をとって自決したと、古老に言い伝えられている。
 ちなみに、末野耕地整理組合評議員であった故坂本源之助氏の遺稿に明治期の末野地区の生活状況等が記されているので、これを引用して次に紹介しておく。
 末野地区は、明治4年の廃藩置県以前は、三田藩主九鬼隆輝の管領していた土地でその当時は田畑及び宅地を含め七十八石五斗七升(約11.8トン)を納めていたが、その時の水田面積は十町歩にも足りなかった。地区内の大部分は平坦な山野であったにもかかわらず水源が得られなかったため開墾することも出来なかった。
 地区内に在る芝添池からかんがいしていた二町歩内外の田地でさえも夏期に半月も降雨がないときはため池の貯水も底をつき、稲は枯死の寸前になりかん水に人力のなし得る限りの苦労をしたことが記録されている。二十八戸の戸数でわずか十町歩内外の耕地であったため、農家の大多数は土木工事等の日稼ぎに出る者、また立杭焼陶器の販売を商いする者等で農耕を専業とする者は少なく年中自家用の飯米を保有できる家はわずかに4,5戸に過ぎず、したがって生活の苦しさはまことに悲しみに堪えない有様であったと記されている。
 大正5年、末野在住の篤農家林山松吉氏は当時末野の大地主平野兵衛氏(大阪在住)の農事顧問で篤農家の村本廣吉氏と共に寝食を忘れて末野開墾の実現に努力し、地主平野氏その他有志に勧めて開墾計画の設計を申請した。
 県耕地整備課長遠藤正重氏は、その測量設計に中野村在(現三田市末東)でもあった、羽路寿蔵(注、初代篠山耕地出張所長)を設計主任として調査させたところ、全国的にみて稀にみる有望な開墾地であることが確かめられた。また、その水源確保の位置としては青野西谷川を黒川上流(三田市永沢寺地先)の2地点が候補地として挙がったが、平坦地も多く、貯水面積が大きくとれる前者が適地として決められたと、いわれている。
 母子大池は、大正15年8月に起工した。工事中に全国的に米の過剰を生じ政府は一時稲作を減らす政策をも考慮する時期に遭遇し農家は極度の不景気に襲われたため、末野開墾事業もこれにつれ資金難となり、なかには田端が抵当でとり上げられるなどの噂もたち非常にもめるなどして事業関係者の苦心は実に凄惨なものがあった。しかし、県当局の指導のもとに起工から8ヵ年を経て昭和8年、工費18万円で完成した。

(五) 工事計画と施行の概要
 母子大池築造計画書は残されていないため、設計の詳細は不明であるが、その概要は次のとおりである。

(1) 開墾区域

当時の3ヵ村8ヵ郷すなわち、中野村末、加茂、宮脇、本庄村須磨田、東山、大畑および貴志村上井沢、下伊沢にまたがる平野のうちから220haを選び、そのうち水田に開墾する予定面積は123haであった。


(2) ため池と用水路
 小野村母子にある前記カチヤ谷池の下流に高さ20mのため池(土堰堤)母子大池を築造、貯水量70万m3、水面積12ha。
 この貯水を一旦青野川に放流し、上青野の地先に井堰を設けて、これを新設の導水路により開墾地へ取り入れる。導水路は青野川取水口から開墾地まで延長約4.5キロである。(本計画の導水路の位置は、前記の往時三田藩において引水した路線を改修し、ただ一部をトンネルに変更しただけで、水路勾配等そのまま利用できた。昔の技術の正確さに、今の精巧な器械をもって測量する技術者さえ驚嘆したといわれている。)

(3) 工事施工の概要
 工事は県営により施工された。この当時は現在のように機械力はなく、すべて人工施工で、長い年月を要し、また工事の難度は想像以上のものがあったと思われる。
 堤塘中心から上流右岸部を土取場とし、用土採取はスコップ、鍬などで地山をかき落とし、スコップでトロッコに積み込み、運搬したことが、当時の写真をみてもわかる。現在と違って労務確保が容易であったのだろう。トロッコによる材料運搬を容易にするため築堤高さに応じて土取場の採取高さも順次上方に向かって位置をかえている。今でいうベンチカット方式を採用したのであろう。
 用土の中で、粘土質の高い土は刃金に、礫分の多い土は外側の抱土に各々区分して搬入し、スコップ、鍬などでまき出し、掛け矢、千本搗き、石のローラーで転圧されている。
 また、刃金は中心と前法(浸食防止を目的としたもの)に両方施行されており、この工法は、その当時の高い土堰堤の設計指針であったであろう。

(六) 事業着手から完了まで
 母子大池は新田開発の水源として築造するため、まず大正11年3月耕地整理組合設立認可を受け、当時の勧業銀行より資金を借入れ、一部国庫などの補助金をもとに開墾事業に着手した。
 母子大池は、大正15年8月起工し、その経緯はさきに述べたが、母子大池の貯水を導水する新設用水路が着工当初から資金難のため不完全であったうえに、水路の補修工事が出来かねたので水路が到る所で漏水した。
かんがい水は不足を生じ、これ以上開墾を続行することが困難であるのみならず、すでに開田済みの土地までも水不足で不安な状態となったので当事者は苦しい立場に立たされた。
 末野耕地整理組合は昭和27年7月、土地改良区と中野開拓の二本建に組織を変更し、直ちに破損した水路の大修繕を計画、昭和28年から3ヵ年にわたって国庫補助を受け、工費4500万円の巨費を投じて改修を行った。さらに末野の中央にある在来ため池の上池も国庫補助を受け、工費800万円をもって水面積拡張と併せて堤塘の嵩上げ工事を完成した。
開墾の経過についてみると、当初計画では150haの田地を開墾することで進め、主な用水源である母子大池と地区内の芝添池、末野池の増築工事は完成したが、当時農業経営が一般に不振の影響を受け開田は遅々としてはかどらず50haで打ち切った。
 しかし、昭和15年頃から戦時体制への関係もあり、全国的に食糧難のため政府は開墾を奨励し、当開墾地においても、昭和16年に開墾目的地の一部を農地開発営団に委託して開墾を促進した。しかし、未完成のうちに終戦となり、残りの工事は緊急開拓事業に変更指定され農林省が引継ぎ、県で代行工事として実施し、昭和26年には、100haの開田地が出来上がった。
 当時は借入金が主体で、この事業を進めることは、地元にかける負担が大きく、その資金集めに役員は辛苦をなめ、家を顧みることもなく、ただ将来の農業の姿をみて母子大池と開田の完成に努めた。これら先人の功績をたたえるため、昭和21年耕地整理組合の大畑地区で、「農は是れ国の礎」の碑が建てられた。
(注) 1,参考資料 三田市誌、故坂本源之氏の遺稿、記念碑文
   2,助言と協力を得た人たち 羽路寿蔵(母子大池築造時の県篠山耕地出張所長)、坂本博治(元母子大池水利組合長)

(七)改修計画の概要
 昭和の恐慌時代に施行し、日中戦へ突入する前哨的なめまぐるしい時代に完成した母子大池は、関係受益者の不断の保全管理にもかかわらず、長い歳月の間に老朽化が進み、堤体からの漏水も多く、また洪水吐能力も不安全で、一部崩壊しているため、緊急に改修する必要があり、昭和56年より、ため池等整備事業の国庫補助制度にのせ、県営事業として改修工事に着手した。
 改修計画の概要は表1の通りである。

※ 本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています。

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