地域のため池を探ろう!

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呉錦堂池(ごきんどういけ)

2020年10月05日

「呉錦堂池」は、神戸市西区神出町雌岡山(標高249.5m)の東北方広野ゴルフ場の南側にある大きな農業用ため池である。この池は大正4年呉錦堂氏によって造られたもので、当初は「宮の谷池」と呼ばれていたが、「呉錦堂池」と改称された。受益地である小束野地区が管理しており、その規模は表1のとおりである。
 「呉錦堂池」の呼び名は、舞子公園の中に建っている八角池で知られる「移情閣」の主人である呉錦堂池氏の功績と徳をたたえるために付けられた。


 呉錦堂氏の経歴と事績について、神戸史話(落合重信、有井基著、創元社刊)により紹介したい。
 呉錦堂氏は安政2年(1855年)9月、中国浙江省寧波府慈谿県に生まれ長じて上海の商家に奉公していたが、明治18年31歳のとき長崎へ渡来してきた。その後、少ない資本で神戸に貿易商を開き、在神中国人との取引きに甘んじることなく、中国本土と交易し、自分も貨物船に便乗して需要を的確につかんだ。頭と体をフルに使った商法は見事に当たり、当時神戸では一流の実業家であった。明治37年1月25日、日本へ帰化した。
 呉錦堂氏が神戸に残した実績は多い。その1つが小束野こそくのの開拓である。彼は日露戦争後、県の斡旋で雌岡山のふもと小束野の土地を手に入れた。最初は果樹園を造成する予定であったが、立地条件からかんがい用水源の開発にも目途がつき、水田造成に計画を切り換えた。
 開墾事業の詳細な記録は残されていないが、本県耕地整理事業大要(昭和7年4月)によると次のように記されている。
 地区名 明石郡神出村小束野一人施行
 事業種別 開墾、地目変換、溜池新設
 総地積 141.26町歩
 事業費総額 142,899円(工事完了)
 当初の工事施工の状況は「神戸史話」によると次のように記されている。
 中国から2、30人の人夫を招き、まず松林を伐採し、その材木でセメント樽を作った。神出に2つの製材所を造り、尼崎で自分が経営するセメント会社へ加工した樽を輸送するどこまでも綿密な計画で、開墾に従う人夫を付近のバラックに住まわせ、ため池、水路、農道を切り開いた。彼はその時農道を幅3m以上にさせた。なんというムダな……と人々はいぶかったが、これが器材の運搬だけでなく、のちの農器具、収穫物の輸送に役立った。
 大正6年ごろの開拓は一応終わった。中国人労務者を帰国させると翌7年水田耕作に従う人達を入植させた。主として神出村の人たちで、山田村その他からも入植した。呉錦堂氏は21戸の家を建て一集落とした。入植者たちの努力によって同年一町二反を開き、昭和5年ころ当初計画の60%にあたる60町歩の水田が造られた。いまでは68町歩、70余戸、400人の住民をもつ集落になっている。鍬1つで切り開いた入植者もみごとだが、莫大な費用を投じて、無償の住宅まで提供した呉錦堂氏の徳は大きい。昭和32年、小束野の中心に住民の手による顕彰碑が建ち宮の谷池は「呉錦堂池」と改められた。
 大正6年、舞子海岸に建てた別荘は3階建八角堂を中心に居間、食堂など備えた建物で八方の窓からの景色は、それぞれ趣きが異なり思わずみとれて我を忘れる、というところから「移情閣」と名付けた。孫文も立ち寄ったことがあり、庭には、「天下為公」と孫文の書を書き写した碑がある。
 大正15年1月14日、神戸市で77歳の生涯を閉じた。
 呉錦堂氏の顕彰碑文
 呉錦堂君は若年にして上海から日本に渡米し帰化してのち社会の業に幾多の貢献をせられことに明治の末期から約20年間に神出町小束野に水田約60町歩を開墾しました用水池として小束野池の築造を完成して当部落が今日の繁栄の基礎をつくられた功績は誠に大きいここに君の偉業をたたえ永く感謝してこの碑を建てるとともに宮の谷池と呉錦堂池と改称して君の名を後世に伝える
中井卯三郎敬書
昭和32年5月 神出町小束野部落民一同 現在、ため池の堤体横に平成4年から8年にかけて県営事業で改修した時の記念碑が建立されているので、碑文を記す。

完成碑文


この呉錦堂池は中国人で日本に帰化した貿易商呉錦堂氏が大正6年(1917年)に築造された池です。
 呉錦堂池氏は安政2年(1855年)に中国浙江省に生まれ明治18年31才の時に日本に渡り神戸で行商から身を起し自分で錦生丸(1427t)と名づけた船で日中貿易を行い大実業家となり明治37年には日本に帰化され凶作年には難民を助けたり貧しい子供を学校へやったり日本のために大変つくされ数々の表彰を受けて大正10年には政府より紺綬章を受章されました
 ちょうどそのころ干ばつに苦しむ神出岩岡地区に六甲山系の山田川疎水が引かれました。それを受けて明治44年にはこの下流にある現在の西区神出町小束野山林を開墾して水田60haを開き小束野池も築造されました。小束野地区が現在百戸以上の大集落になって栄えているのも呉錦堂氏のお陰です。
 この池は以前は地名をもとに宮ヶ谷池と呼ばれていましたが小束野地区では呉錦堂氏に深く感謝して昭和32年に地区の中心に記念碑を建立して功績を称え宮ヶ谷池を呉錦堂池と敬称することになりました。
 大正6年の築造後80年後を経過し老朽化が著しくなってきましたので当池を平成4年より平成8年まで県営事業により事業費3億円余をかけて大改修を行い総長ブロックの見事な呉錦堂池に生まれ変わりました。
 ここに営々と守り続けて来た先人達の労に敬意を表し記念碑を建立します。
 平成9年3月 小束野水利組合

記念碑
神出支線水路の看板

※ 本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています。