ため池保全県民運動

ため池の紹介

了徳寺池(附 天下溝のこと)

2021年08月24日

(1) 所在地 加西市鍛治屋町了徳寺
(2) 型式と規模
     型式 土堰堤
     堤長 本堤119m,副堤127m
     堤高 本堤14m, 副堤11m
     満水面積 4.12ha
      貯水量  150,000m3
(3) かんがい地域とその面積 加東市滝野町高岡の水田81ha
(4) 築造の経緯
 加西市鍛治屋町にある了徳寺池(通称奥池)は青野ヶ原(現滝野町高岡)開拓の心臓として、享保5,6年(1720年~21年)に着工し享保9年に完成したものである。
 青野ヶ原は享保の初年(1710年代)ごろは加東、加西両部21ヵ村の入会地で「青野原」と呼ばれる数百町歩の原野であった。
 河高の人で大久保六兵衛政重が当時、加東、加西郡にわたる土地を領有していた仙台信濃守政房(藩庁は出石郡)の示唆により、享保4年(1719年)前後に青野原新田開拓を幕府に願い出、同新田の心臓というべき了徳寺池と、大動脈に当る「天下溝」が幕府の直轄工事として着手された。この池の築造工事に関する文書は、幕府の直轄工事であったためか一切残されていないが、旧富田村吉野(現加西市吉野町)に伝わる『吉野文書』に了徳寺に関する一節があるので次に紹介しておく。(原文漢文)
 『享保9年(1726年)の春、青野新開了徳寺が完成した。その仕事に従事した人夫は十万人余で、加東、加西両部に人夫の出役を仰せ付けられ、四里四方から加勢の人夫が集まりました。その賃金は日当で一人につき壱匁分宛下されました。』

(5) 了徳寺池の由来と工事の概要
 文書として残っているのはこれだけで、今ではわずかに古老の伝承によって断片的にのみしか分からない。こうした古老の口承を丹念に記録された藤井右一郎(1878年~1962年)の手記である『高岡奥池の由来』をもとに、その大体の模様をみると次のとおりである。
 この池の名に「了徳寺」の名が付けられているのは、了徳寺の屋敷が新設ため池の場所として最適であったため了徳寺を青野原新田の現在地(滝野町高岡字平池)へ移し、その跡を堤塘敷とし寺の名をとって名付けたものであり、2つの谷間を堰き止める絶好の場所であった。
 ため池や水路の測量についての詳細は不明であるが、闇夜に提灯を3個ともし、それを順次送って土地の高低を見るという夜間測量の方法をとった。享保(1720年代)といえば、まだ西欧式の測量技術は伝わってなく、まして伊能式(伊能忠敬が編み出した測量術)も実用化されていなかった時代であり、中国から伝来していた稚拙な方法によったものと想像される。また堤体の築造には真刃金法を用い中央部は油刃金で堅く締めている。油刃金とは年度に油と水を混ぜて練ったもので、その油には当時播州地方で広く栽培されていた綿の実をしぼったものを用いたようである。了徳寺池の規模は次のように記載されている。
 堤長 48間(約87m)
 天端幅 5間(約9m)
 水深平均 7間(12.6m)
 底樋 2ヵ所
 底樋の長さ 36間(約65m)
 古文書で了徳寺池の規模については、本堤のみ記載されているが、もちろん同時に副堤も築造されていなければならない。なお本堤の堤長をみると、昭和50年大改修時点での堤長123mと比較すると、約40mの差があり、築造後されたものではないかと思われる。
 また了徳寺の由来は次のとおりである。
 現在位置 滝野町高岡字西平池
 創立   天正13年(1585年)8月
 
 寺院の移転
 天正13年に創立され、加東郡王子村に小庵を結んだといわれる浅野家の家臣藤井又助の計らいで、加西郡鍛冶村(現鍛冶屋町)に山林二町二反余及四方六十間の寺屋敷を除地(租税を免除された土地)としてもらい受けて此所に移った。
 元の鍛冶村の寺屋敷は今の了徳寺池である。(加東郡誌による)

(6) 天下溝について
 天下溝とは加西市大工町、河内町の谷間を水源として、導水路で青野原新田の東・西平池まで通じている水路、及び加西市野上町の善光寺井堰(野上遺跡)から青野町を経て、東・西平池へ引水している用水路の総称である。
 その名称は、幕府直轄の工事であったためといわれている。天下溝は加西市河内町の東北端の谷間で2ヵ坂の谷川を受けた新条池(地元では幕府に差し上げたので「進上池」と呼んでいる)がその最先端の水源である。同池は河内町にあるが水利権は全く青野原新田にある。

 用水路線の概要は図2の通りである。

 この新条池から山田町の地所を通って牛池(山田町所有)に入り、牛池の越水を馬渡谷町まで導き、ここでもう1つの水源である大工町の西谷池の余水を同町の石橋の分水溝より取り入れた水を合流させ、鍛治屋町の了徳寺池へ貯水する。また野上町の善光寺川野上井堰より大雨の際に取水した水を都染町、青野町を経て東・西平池まで導水し田植期まで貯水される。上記の了徳寺池の水も、かんがい期になると両平池まで送水される。これらの導水路を「天下溝」と呼び、その規模は古文書には次のように記載されている。
 新条池より了徳寺池まで
 全長 2420間(約4.4km)
 水路幅 平均一尺三寸(約40cm)
 水路の深さ 平均四尺(1.2m)
 (注) 安永5年(1776年)の「普請目論見帳」による
 現在では加西市内を走る長さ8km、滝野町高岡内6km余の計約14kmで、高岡の一部はコンクリート水路に改修されているが、残りのほとんどは素堀の土水路で水路敷幅平均2m、溝の深さ平均1.2mという大規模な用水路である。天下溝の水利については、幕府当局も非常に気を使っている。それは延々14km余りにわたる天下溝が、その沿線の村々の既得の水利権をかなり浸しているため、のちの紛争が起こるだろうことを恐れ、幕府は天下溝が完成した享保10年(1725年)2月に天下溝筋々の村々から、普譜奉行あてに一礼をとり後日の証として青野原新田の領主に下げ渡して保管させた。

 一礼の内容は主として天下溝筋の村々の池、及び用水路と天下溝が交わるヵ所についての処理であるが、かなり高い姿勢で望み、「新田用水に支障をきたすようなことは決して致しません」と誓わせ、青野原新田の水利を優先させている。
 しかしながら幕藩体制の崩壊とともに、この絶対的な引水優先権は崩れてきたようである。地元の古老間で「二十年裁判」と語り継がれている天下溝の水論を紹介しておく。
 ことの起こりは昭和3年のこと、大工町の石橋という小さな谷川で水論が勃発した。この谷は、大工町の西谷池の漏水を、天下溝と西ヶ谷池(鍛治屋町の水源)に分ける分水溝であった。とくにこの石橋は降雨ごとにその堰き止めをめぐって江戸時代から鍛治屋町との紛争が繰り返されてきた溝である。
 昭和3年春、天下溝掛りの高岡がこの漏水をすべて天下溝へ入れようとしたためであった。それでは鍛治屋町の水源である西ヶ谷池は貯水ができず永久に干しあがってしまう。驚いた鍛冶屋の農民はさっそく高岡側が頑強に拒否し、果ては「水利妨害排除請求事件」として神戸地方裁判所姫路支部へ提訴した。小村であった鍛治屋地区の農民は訴訟費用などの面で到底負担に耐えられないため、何とか訴訟をくい止めるべく、八方に調停を依頼したが、すべて無駄に終わり裁判が行われた。第一審の判決は昭和6年9月21日に下され、鍛冶屋町の勝訴となった。その理由は「西谷池から西ヶ谷池への水路は天下溝築造以前より存在したものであり、また西ヶ谷の水源は西谷池の漏水以外にないので天下溝方の専有とは認められない」というのであった。
 高岡側はすぐに大阪訴訟院に姫路支部の判決の取り消しと、既得水利権確認の2点を控訴した。この判決は昭和8年12月28日に棄却され、大審院に上告したが、大審院での判決は同9年9月20日に「本件上告は之を棄却す」であった。
 大審院でも破れた高岡側はなお諦めきれず、11年に「優先引水権確認等請求」の理由で再度起訴したが、時あたかも日中戦争の勃発によって調停裁判を進められた。双方これを受託、太平洋戦後の昭和22年正月に、やっと調停が成立した。
 「西谷池の越水はまず西ヶ谷池へ導き、池中の標識に達した後、期間季節に拘わらず高岡の了徳寺池へ送水する」と取り決められ、20年余にわたる水論は幕を閉じ、その後は大した紛争もなく今日に至っている。(文化散策26 吉田省三氏の文による)
(7) 天下溝、了徳寺池等の維持管理について
 了徳寺池を含めた青野原新田のかんがい施設の維持管理のことであるが、青野原新田開拓の成否は用水にかかっていたため、水利権はもちろん用水路塔の配置については細心の注意を払うと共に、莫大な費用を憎みなく投入している。
 旧幕時代は天領であったため、経費の大部分は幕府の負担であったことは現存する古文書にも記録されているが、その一例として了徳寺池の状樋修理を願い出て(享和3年=1803年)聞けられているようである。
 幕府からの費用援助がなければ、二百戸たらずの新開の一村だけで全長14km余りの用水路と了徳寺池を含む地区内12ヵ所のため池の維持管理は不可能であっただろう。
 (注)1.参考文献
 ・吉野文書(加西市教育委員会所蔵)
 ・高岡奥池の由来(「青野ヶ原新田」県立社高校・地歴部編)
 ・文化散策26(吉田省三氏記)
(8) 改修の経緯

 了徳寺池の築造は享保5年(1720年)ごろ着手し、約4ヵ年の歳月をかけて享保9年(1724年)に完成したものと思われる。古文書によれば享和3年(1803年)に状樋の修理等の部分改修を行ったことは記録にあるが、堤塘等の改修については記録が残されていない。築造以来約250年を経過しており、堅ろうを誇ったこの池も堤体各部の老朽化が著しく漏水も多くなってきた。また取水用の底樋も木造のため腐朽がひどく使用不能に近い状態になり、用水確保に困難となったため昭和49年から県営事業として大改修を行った。(ため池等整備事業)
 その概要は表1の通りである。

改修工事の記念碑と水神の祠が本堤の東側湖畔に建っている。
記念碑には次のような碑文が刻まれている。
 高岡了徳寺池は享保8年、5年の歳月を費やし築造されたものである。
その後、昭和17年に青野池内天下溝より約910mヒューム管を敷設しポンプによる揚水施設を完成、貯水増強に努めて来たが築造以来既に250年余を経て漏水老朽化したので昭和49年より兵庫県営事業としてアスファルトパネルの表面止水工法により昭和53年改修完工したものである。
 ここに概要を録し記念とする
    設計監督 兵庫県社土地改良事務所

(9) 国営加古川西部総合土地改良事業及び県営ほ場整備事業(宇高地区)との関係
 古くから了徳寺池を主水源として、天下溝用水路によってかんがいされていた滝野町高岡台地の開墾畑も、第二次対戦とその後の食糧増産対策に沿って水田に転換されたため、用水の不足はますますひどくなってきた。用水不足は解消のための水源を了徳寺池以外に新しく求めることは、自然地形的にも、また社会的にも不可能であった。
 かんがい用水不足の状況は、高岡台地のみに限らず、現対策として、昭和30年の初期に、国営による一大農業水利開発事業の必要を地元から提唱され、幸い地元の熱意により、43年に国営加古川西部総合土地改良事業が着工された。了徳寺池と天下溝の用水については、多可郡中町に新築されつ糀屋ダム(貯水量1,332万8000m3)から東幹線水路によって了徳寺池へ用水の補給をうけることになっている。糀屋ダムからの用水補給を前提として本地区と加西市の一部を含め、約330haは県営ほ場整備事業が施工されることになり、歴史のある天下溝も老朽化がひどいため、近代式工法で改修されることになった。
 国営事業が完成すれば、昔から苦しめられていた用水不足も解消し、農業経営の安定化だ期待されている。
 これら両事業の進展を願うとともに、先祖から受け継いだ一大遺産である了徳寺池と、天下溝の歴史的施設の価値を再認識し、その保全管理に努めることが、祖先の偉業を受け継いだわれわれの責務であろう。
※ 本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています。