地域のため池を探ろう!

地域のため池を探ろう!

鶴池・亀池(小野市)

2021年07月01日

(1) 所在地 小野市山田町池の尻
(2) 型式と規模
      型式 中心刃金式土堰堤

区分堤高堤長満水面積貯水量
鶴池10.5m220m6.5ha260000m3
亀池11.0m100m2.0ha100000m3

(注) ため池の諸元は、ため池台帳による

(3) かんがい地域とその面積
 鶴池と亀池とを合わせ、山田川流域の山田町、市場町の水田98haをかんがいする。
(4) 築造の経緯
 鶴池(下池)亀池(上池)の2つの池は、現小野市市場町の豪商近藤亀蔵氏が、江戸末期の文政6年(1823年)に私財を投じて築いたものである。
 2つの池を築造した経緯は、この池によって恩恵を受ける市民が、鶴池堤塘の北側池畔に碑を建てて、その徳をたたえ、功績を不朽に伝えている「鶴亀池碑記」に詳しく記されている。
 その概要を紹介しておく。
 文化11年(1814年)に加東郡一帯も大干ばつで、近藤亀蔵が住んでいた市場村はもともと地下水が乏しいため、ここの農民たちは何の手当をする方策もなく、ただ苗の枯れてしまうのを待つほかはなかった。
 亀蔵はこの悲惨な状態を非常に心配して、どうにかしてかんがいの水を得ようと日夜苦慮した。
 ふと上流山田村の地の高いところに自然の凹地で池の形をしているのを見付け、この場所にため池を築造すれば、池が高い所にあるため、水路を築いて導水することにより、市場村の水不足は無くなると考えた。
 しかしながら、ため池の予定地は小野藩の領地内であるため、小野候に池の築造についてお願いした。
 小野候は亀蔵の志が人を救うことの大きいことに非常に感嘆して亀蔵の請願を許可された。そこで亀蔵は村民を招集して2つの大池、すなわち鶴池・亀池を築造した。
 また、「鶴池」「亀池」の名については、碑文記には漢文の名分で刻まれているが、それを読むと「田を耕作していた或る日、白鶴がひらひらと舞い下りるのを村民たちが、これはめでたいしるしだと考え、池の名を鶴池と名付けた。
 またその上に造られた池は、近藤亀蔵の名をとって亀池また亀蔵池と言っている。」とある。
 なお碑文記は、小野藩儒であった林韑(はやしけ)の文で、両池が造られた20年後の天保14年(1843年)6月に建てられたものである。
 加東郡誌によると、記念碑が建てられた翌天保15年に近藤亀蔵氏は、両池築造の功績によって幕府より嘉賞(かしょう)せられたとある。
 (注) 鶴亀池碑については、「碑文が語る土地改良」(昭和57年10月20日、第15回全国土地改良大会運営委員会)に掲載されたものである。
 なお碑記は漢文の素書であるが、小野市史の紹介記を参考にして、句読点、返り点、ふり仮名を編集でして掲載する。
(5) 改修の経緯
 約160年前の江戸末期に築造された2つの池の改修歴については、付録が残されていないため不明である。
 下池の鶴池は提体の老朽が進み漏水も多いため、近く堤体の全面改修が予定されている。

(6) 近藤亀蔵氏のことについて
 余談であるが、亀蔵の事績について小野市史から引用して紹介しておく。
 亀蔵は天明元年(1781年)現小野市市場町に生まれ、寛政元年(1789年)に父の遺業を継ぎ才智縦横、諸見卓越、文化文政(1810年代)の頃から安政(1854年)に至るまで、40余年間色々の事業を行っている。
 その中で最も成功したのは回漕業で、山王丸(八百石積帆船)等帆船数隻により、西は長崎より北は北海道に至る沿岸諸港を回航し、大阪、兵庫、明石、高砂塔に所有している土地倉庫を利用し至る所に支店を設け、米穀肥料及び諸雑貨を売買、また外国船との問に貿易を営み、実に加賀銭屋五兵衛と並び称せられるに至ったといわれている。
時の俗歌に
「市場の亀蔵さん、阿弥陀か釈迦か、御門通れば、後光がさす」と歌われ、その家門の繁栄を知ることができる。

(注) 参考文献
1. 加東郡誌
2. 小野市史

※ 本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています。