地域のため池を探ろう!

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中山大池(南あわじ市)

2021年06月30日

(1) 所在地   南あわじ市緑町中条広田
(2) 型式と規模 
       型式  土堰堤
       堤長  380m
       堤高  4.0m
       水面積 2.3ha
       貯水量 4,000m3

(3) かんがい地域とその面積
 初尾川からの直接取水と合わせて中条中筋、広田、山添の水田39haをかんがいしている。
(4) 築造の経緯
 中山大池がいつごろ築造されたかは不明である。本能寺の変(1582年)の後、天正13年(1585年)、大池のある広田庄は脇坂氏領となった。度々決壊したこの大池が脇坂氏によって大修理が行われたのであろう。
 池守役の家筋、中山の奈良家に伝えられている『大日本最初淡州三原郡広田庄中山池由来事』と題する文書によると、大修理の池普請は天正19年(1591年)正月から一か月余りの間に行われたことが記されている。
(5) 中山大池と池守のこと
 三原郡におけるかんがい様式はため池によるものが約75%(昭和17年)で他は河川、湧水、井戸にたよっている。
 近世の水利権は一般に大名が持っており、池の管理は藩の井水奉行の指示により、その村の庄屋がこれに当たっていた。
 またそのかんがいが数ヵ村にまたがって庄屋で統一し難い場合は庄屋とは別に「池守役」を置き、これをその子孫に世襲させた。
 三原郡内で藩が特に池守役を置いた池は十ヵ所あり、中山大池もその1つである。大池にかかる奈良家の年譜を見ると次のとおりである。
天正8年(1580年)奈良呉郎、中山大池、池守役を仰せつかる。
文禄4年(1595年)脇坂公より詰工事免許
慶長18年(1613年)池田公より池守役
慶長20年(1615年)蜂須賀公より池守役 
寛永4年(1627年)池守役と兼せて庄屋役
宝永4年(1707年)苗字帯刀御免支配外
享保12年(1727年)庄屋役を分家に譲り池守役のみとなる

(6) 池改修の経緯
 大池の改修歴については、さきにも紹介した中山の奈良家に伝えられている古文書に、天正19年(1591年)領主脇坂安治のときに池普請(藩工事)が行われたことが記されている。
 すなわち、天正18年は干ばつに見舞われ大飢饉となったので渡辺七右ェ門が奉行となり、天正19年5月から30日余をかけて完成させた。この年は大寒波の年であったが、仕事は朝は午前6時、夜は午後6時と定め、奉行自から堀石や土踏みをして百姓達を励まし短期日の内に完成した等その内容を詳細に記している。
 その約170年後の江戸中期、昭和2年(1765年)の控書には次のように記されている。(原文は漢文)
 中山大池は広田宮村等4ヵ村の用水池であるが、除床が悪く度々切られるので完全に修理して水漏れしない様いたしたい。
 その工事費として、以前から砂で埋まった空地五反を下さい。そしたら開墾して畠作をし、その収入で永く引き続いて修理いたしましょうと、お役所に願い出たところお許しがあり証文を下さることを稲田九郎兵ェ殿が仰せられたので証処として報告します。
其浦平八 御判 昭和2年3月5日

(7) 中山大池の田主と現況
 中山大池の水は初尾川の井堰取水と合わせ12田主をかんがいしている。(図2参照)
 昭和55年度の大池掛、田主と面積は左記のとおりである。( )内は昭和初期の面積
 樋尻田主   89.1アール(184アール)
 畑田田主   631.0アール(882.5アール)
 猪ノ木田主  77.6アール(80アール)
 原添田主   28.6アール(52アール)
 中田田主   753.2アール(877.5アール)
 大御門田主  560.0アール(655アール)
 久保ノ内田主 163.8アール(220アール)
 鉾手田主   570.0アール(760アール)
 中堂田主   340.0アール(70アール)
 樋田田主   46.0アール(347.2アール)
 計    3,909.3アール(5,785.2アール)

 これら各田主の中で樋尻田主のみは中山大池の水によるが他の田主は荒ら水(代かき用水)以外は初屋川からの中世より修繕工事に悩み続けてきたこの池も明治以降は宅地化によってかんがい面積は大幅に減少した。

特に最近は国道28号線の付替によって宅地への転用は著しく、池水の活用も少なくなり、昭和49年には淡路唯一の「打ちっぱなしゴルフ練習場」に水面を貸している。

(注) 中山大池にまつわる事績は文献によった 緑町役場吏員 西東祥征氏作『緑町風土記』、三原郡史