地域のため池を探ろう!

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琴引池(養父市)

2021年06月01日

(1) 所在地 養父市大屋町大字宮垣字琴引
(2) 型式と規模
     型式 土堰堤
     堤高 6.0m
    堤長 60m
     貯水量 1,000m3
    満水面積 0.05ha


(3) かんがい地域とその面積  大屋町宮垣の水田2.3ha
(4) 築造の由来
 琴引池の築造歴については資料もなく不明である。
 大屋町宮垣から八鹿町八木へ越す峠(県道272号)を琴引坂といい、この坂の八合目には一字の堂と2つの碑がある。
 この石碑の西数歩に池があり、その由来を伝える者もないが、その名は琴引池と呼ばれ、水は千年の藍をたたえ、池底には近郷にまれな水草が育ち、池畔の小松は峯渡る風は、この池にまつわる悲しい物語をささやくように思われる。
(5) 池にまつわる悲話
 天正8年(1580年)羽柴秀吉の但馬攻めにより、三方城も落城し、城主大蔵尉正秀の夫人は実家八木城に帰り、夫や家臣の冥福を祈って静かに暮らしていた。
 ある時、夫人の哀れな心根を察した待女は、三方城の見える平地に席を設けて、夫人を誘い興のおくところをはかって、久しく忘れられていた琴を取り出し1曲を所望しました。もとより、夫人は弾の名手でした。そのか細い指先にふれた時、絃は異様に震えて妙なる音を発します。
 弾くほどに夫人の瞳は輝き、物の怪につかれたように、身体全体がおののいているかに見えます。いつしか我も人も夢心地になりました。
 風も遠慮したのか、草木も耳を傾けたか、静まりかえった山肌には静かな小春日が照り、不思議な琴の音が伝わってゆくばかりです。
 今や夫人は、幽明境を越えて、夫正秀の尺八に和しているのであろうか。
 日は西に傾き、ようやくたそがれるころになって、やっと我にかえった待女の目に夫人の姿は見えません。
 驚き騒ぐ待女達をよそに、主たる琴は今も鳴り響いているかに見えます。
 やっと池の畔に夫人のはきものを発見しました。池の底深く尋ねましたが、夫人の姿はなくただ金糸のぬいどりをした夫人の片袖が見つかっただけでした。
 このことがあって後、この山の琴弾く音が聞こえるようになり、池の名も琴引池と呼ばれるようになりました。
 (注) 参考文献 大屋町史による
※ 本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています。