帆坂池(赤穂市)
2021年06月15日
(1) 所在地 赤穂市大津帆坂
(2) 型式と規模
型式 中心刃金式土堰堤
堤高 150m
堤長 11.5m
貯水量 100000㎥
満水面積 2.44ha
(注) 池の規模は老朽ため池整備事業(小規模)概要表による
(3) かんがい地域とその面積 大津川流域の水田16ha(水源は本ため池のみ)
(4) 築造の経緯
いまもこの地区に、次に紹介する池にまつわる民話が伝えられていることから、古い年代の築造と思われるが、築造にかかる古文書類が残されていないので詳細は不明である。古老の口承によれば、浅野藩時代(1670年~1690年代)ではないかと伝えられている。
ちなみに、本ため池の上流面は、一割勾配(傾斜角45度)の石張堰堤は、やはり浅野藩領であった、現上郡町八保にある鳳宮池が元禄5年、赤穂藩主浅野内匠頭指導によると、記録されていることから推察して、同年代に築造されたため池ではないかと思われる。(編集後記)
(注) 鳳宮池のことについては、「鳳宮池」の項に詳述されている
(5) 改修の経緯
約300年以前に築造され、池にまつわる民話も伝えられ、地区唯一の用水源として、地域の人達から大切に保全されてきた帆坂池は、長い歳月の間に何回か改修されていると思われるが、改修記録が残されていないので不明である。
戦後においては、たびたびの豪雨による被災で表1のように災害復旧事業が施工されている。
このように、たびたびの被災で部分改良は起こってきたが、昭和51年9月の台風17号による大豪雨の経験から、ため池の余水吐断面が小さく、かつ、堤塘の余裕高も少ない大豪雨時には堤体の決壊する恐れもあることから、昭和53年度に、老朽ため池整備事業(小規模)により、余水吐断面の拡幅を主とした大改修を行った。
事業の概要は表2のとおりである。
(6) 池にまつわる民話
帆坂池の主は、玄能であるといわれています。玄能というのは、石工が石を割る鉄の大槌のことです。
昔はこの池に、主としてうわばみ(大蛇)が住んでいました。池のまわりには、何百年もたったと思われる大きな杉の木がいちめんに茂っていて、昼でもうすぐらく、いかにもうわばみが住んでいそうな池でした。
池のうわばみは、一日一度は息をするために、池の面に姿をあらわさねばなりません。
姿を水の上に出しますと、まわりの杉の木の枝から露が落ちてきて、うわばみの背中を打ちます。
このことが毎日続きますので、うわばみの背中の皮がくさりはじめました。
しかし、息をするためには、どうしても一度は水面に出なければなりません。
浮かぶ場所をいろいろ変えてみましたが、池をおおうように杉が茂っていて、どこに浮かんでも杉の露が落ちてきてうわばみの背中を打ちます。
傷は、だんだんひどくなってきました。
これでは、背中がくさってしまうと心配になったうわばみは、ある日、武士の姿に身を化して、備前(岡山県)の湯の郷の温泉へ湯治(温泉に入って病を治すこと)に出かけました。
3月ほどの湯治で、背中の傷がすっかりよくなりましたので、うわばみは、武士の姿のままで赤穂に帰り、待となって殿さまにつかえることにしました。
「あの池のまわりに杉の林があるかぎり、露が落ちて、背中をくさらせるにちがいない。なんとしても、一本も残さず杉の木を切ってしまわなければ安心してこの池に住むことができぬ」と考えたのです。
その年の夏は、雨が一滴も降らず、ひどい干ばつになりました。田の水はいうまでもなく、飲み水まで不自由になってきました。だれもが、雨を降らすよい考えはないかと思い悩んでいるとき、うわばみの武士は殿様に申し出ました。
「帆坂池のまわりの杉の木を残らず切り倒したら、きっと大雨が降ります。」と、殿様も困っている時だったので、たいそう喜んで、さっそく家来のものに池の杉を切りはらわせました。
しかし、一滴の雨も降ってきませんでした。かえってかんばつが激しくなってきました。
殿様は、たいそう腹を立てて、その武士を捕らえるよう命じました。
家来のものが、縄をかけようとしますと、武士は本身をあらわし、大きなうわばみの姿となって、城を抜け出し帆坂池に逃げ込みました。
家来のものどもは池まで追いかけてきましたが、どうすることもできません。
とおりかかった石工がこれをみて、持っていた玄能を池の中に投げ込みました。かんばつで水が少なくなっていたため、玄能はうまくうわばみの頭から血を吹き出し、血煙となって空高く舞い上がり、真黒な雲のかたまりになり、その雲からはげしく雨が降ってきました。
うわばみは、その雨足を橋として、池を出て黒雲にのり、どこかへ行ってしまいました。