小野大池(小野市)
2021年05月27日
(1) 所在地 小野市王子町大池
(2) 型式と規模
堤長 281.0m
堤高 10.5m
満水面積 12.0ha
貯水量 592000m3
(3) かんがい地域とその面積 かんがい地域は西池の権現池と合わせ80ha
小野市葉多、久茂、下大部、片山、王子町(旧大池郷5ヵ村)
(4) 築造の経緯大池が造られる前は、今の池床になった所に2つの古い池があったといわれている。
大池の築造そのものに関する記憶書は残されていないが、小野市に残っている『小野旧藩誌』の古文書の中に、「大池に関する水論」についての各種文書が記載されており、その1つに、『長尾谷井堰対談の覚』という相互取り交した文書がある。
これによると大池は徳川の初期小笠原右近大輔が明石城主であったとき(元和3年1617年~寛永9年・1632年)王寺谷ため池(現大池)の築造工事を村人に命じ造られたため池であり、貯水のための引水は、万勝寺川の長尾谷に取入堰を造り、それより導水路(長尾谷溝)で引水貯水する水利権等の関係が成立した、と記録にあることから、ほぼ今の大池の姿で築造されたものと思われる。
ちなみに現在、大池と親子関係にある西側の権現池は、大池が造られた頃はまだ姿を見せず古い絵図でみると、藩士族の邸宅地で、その西側に小さいため池(旧権現池)があった。
現在の権現池は、太平洋戦争中の昭和18年に耕地整理事業によって造築されたものである。
(注) 長尾谷井堰対談の覚…次項水論についてを参照
(5) 大池にかかわる水論について
大池に関する水論のうち、『長尾谷井堰対談の覚』(原漢文)から紹介する。
紹介する書類は、文化4年(1807年)大池の水に関して、長尾谷井堰の水利権者(旧黒川村、王子村、北畑村、南畑村、久茂村、下大部村、片山村の各百姓)が訴訟方となり、万勝寺川にある現垂井町の旧7ヵ村の各百姓を相手として起こした水争いの経緯記録書で、その概要は次のとおりである。
長尾谷の井堰を大池郷5ヶ村と黒川村の人足で補修して取水していたが、昨年6月19日夕立があった時、万勝寺川の下流で取水している垂井郷川筋より多数の人が右の取入堰を切り荒らしてしまった。
そのとき大池郷並に黒川村より文書で相手方を申し入れた。
その内容は、大池を明石城主であった小笠原候が、築造されたとき、大池の取水に関する水利関係は、長尾谷を取水口とすることに定められており、その時から約170年余の間、定められた通りに取水していた。
37年前の明和年中(1770年)にも、下流の奥村(現天神町)から多数の人足が出て右の取入堰を切り壊してしまったので、そのとき藩所へ申し入れたところ奥村の関係役人が咎められたこともありました。
このような経緯がある長尾谷関を無理に切り壊してしまうような事をされたその真意がわかりかねます。
この文書では既得水利権を盾にして相当強固に申し立てているが、相手方と話し合いの結果、垂井郷6カ村の堀井戸の水が無く、5月の植付日から8日目までに4割の植付が出来なかった場合で、大池の水が6割以上残っている時は、長尾谷川の流水は下流へ流すことにする。また夏の干ばつで下流に水不足があって、大池の残水に余裕があると思われてるときは、下流へ水を流すことにする。このような場合は、両方の村役人が公平に判断して、長尾谷川の取水方法を取り決めることにしたとあり、同じ小野藩内のことで、両者が良識によって行動したように思われる。
(6) 大池を中心とする小野北部の地形と水利関係について
今大池の堤に立って大池を眺めて誰もが不思議に思うのは、川もないところに何故このような大きな池を造ることが出来たかという疑問である。この疑問を解くために『加東郡誌』を紐解けば、次のような推論が記録されている。
往古大部庄(現小野市王子、敷地、高鹿喜(たかがき)、広渡、中島町をいう)には東方の山地に源を発して西流し、加古川に流れ込んでいた3つの渓流があったように思われる。
後世土地の開墾が進むにつれて、ため池とし、あるいは用水溝や水田にしたと思われる痕跡が今日でもなお明らかに見られる。
具体的に見るとその1つは、今の浄土寺山の南方山中を水源とし、黒川を経て、今言われる小野の大池となり、王子及び小野市街地の西を流れ大島町北島に出て万勝寺川の北側で加古川へ流れ込んでいたものである。
今もこの筋に葦原池、帆の谷池等の古い渓川と思われる跡がある。
他の1つは浄土寺山の北谷辺に源を発し原田、鹿野を通り喜多に流れ、現在の東条川に合流(現在の古川橋の付近)し、高田の東を南流して流入していたと推察される。
加東郡誌の作成された大正10年頃は、鹿野原から平野の間を西へ幅十間(約18m)余、深さ一丈ないし二丈(3~6m)あたかも小河川を思わせるような細流の痕跡があったと記録されており、現在の高田町には河流にちなんだと思われる土地の字や、土地も低く河川敷であったような水田がある。また、大池の上流側にある黒川町近辺の開発沿革について、やはり『加東市郡』の文を左に紹介しておく。(加東郡誌のまま)
往古此の地に黒川と称する小川ありて浄土寺山の南方山谷より発源し加古川に注入せしものゝ如く今尚所々に川流の痕跡を存し地名にも柳渕、馬渡、中島など川にちなめるものあり。此の黒川は後世変遷して自然に埋没せしか或いは開墾の際これを埋めて山中の水源は瀦溜(ちょりょう)して池となし、川敷は整地して水田となせしものなるべし。地勢を按ずるに富部落の北に中島あり、西に大池(現小野大池)がある。
(7) 改築の経緯
約360年以前の徳川初期(1620年代)に築造された大池の改修歴について、古文書に次のように記載されている。
①明治末期に堤体の全長にわたって、前刃金で改修した
②大正初期斜樋の約10mを松材で補修
③昭和13年に余水吐の部分改修
④同18年制波工の植石コンクリート張を補修
⑤同20年斜植を松材で補修
以上のように部分的な改修、補修はされているが、堤体の老朽化が激しく、また余水吐能力も小さいため、防災面から昭和39年より大規模老朽ため池事業として県営で全面的に改修した。
その概要は表1のとおりである。
大池改修時(昭和40年)大池の北側には新池、権現池の北側にヤクサミ谷池があった。
今はこの2つの池も埋め立てられ、権現池の北側には小野市役所、市民会館等が建設され、市の行政の中心がここに移ると共に、近辺の様相はすっかり変わっている。
昭和18年に造築された権現池の西側堤体も老朽化が進み、漏水量も多く、特に上流面の浸蝕が著しいため、昭和57年度からため池等整備事業(小規模)で堤体の全面改修が施工されることになり、その総事業費は約3600万円が見込まれている。
ちなみに権現池の規模は次のとおりである。
堤長 140m
堤高 7.4m
貯水量 81000m3
満水面積 3.1ha
(注) 1.権現池増築記念碑と碑文は、別添掲載
2.参考文献 加東郡誌、小野市史、長尾谷井堰対談の覚
3.資料の収集と助言をうけた人 小野市新部町 森本順二氏(元市助役)
※ 本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています。