印南野台地のおはなし
2020年10月12日
古墳時代から奈良時代ごろ(6~8世紀)
条件の厳しい地域でしたが、湧水を活用したり、ため池を築くことによって水田が開け、米づくりが普及していきました。
戦国時代ごろ(15~16世紀ごろ)
新田開発が盛んになり、築城や鉱山などの技術を生かし、長い水路を等高線に沿って造り、河川の上流から水を運ぶ方法が普及しました。
▶1656年、新井(しんゆ)用水ができたことによって、豊かな加古川の水を水田に引き入れることができるようになりました。今里※傳兵衛の偉業です。
※今里傳兵衛・・・古宮(現在の播磨町)の大庄屋に生まれました。干ばつで苦しむ地域に延長14km弱の新井用水路を計画し、すばらしい工夫と多くの村人の努力によって、1年半という当時では考えられないような短い期間で用水を完成させました。
▶1658年、村人の手によって、明石川の上流から野々池(明石市鳥羽)へ水を引く掘割用水路が完成しました。野々池には満々と水がたくわえられ、長年水不足に苦しめられた村々の田をうるおすこととなりました。この林崎掘割用水から河川とため池を併用するやり方が広がっていきました。
野々池は昭和49年、上水道の貯水池に生まれかわりました。
江戸時代ごろ(17~18世紀)
河川から水を引き、ため池に水をためるという新しい技術が考えられました。水の確保が容易になりました。