才の池(加西市)
2021年12月01日
(1) 所在地 加西市西横田
(2) 型式と規模
堤長 68m
堤高 7.5m
満水面積 6.0ha
貯水量 167,000㎥
(3) かんがい地域とその面積 加西市東横田町、西横田町の61.5ha
(4) 築造の経緯
才の池の築造に関した古文書が残されていないため、築造の歴史は不明である。今も地元の人々に語り継がれている伝承等からすると、約850余年前の天承(1131年)のころには築造されていたものと思われる。古文書として「さいの池」の名が記されているのは、現加西市吉野町に残されている『吉野文書』で、宝歴6年(1709年)の大干ばつの時、雨乞いの様子を伝えた文書の中に「6月26日より初め横田村才の池加年掘り郡中右人数寄合」と記されているのが唯一の文書であろう。
「才の池」にかかる伝承と、雨乞いにかかわる『吉野文書』の一部を次に紹介しておく。
(5) 才の池と雨乞いの伝説とその記録
加西市西横田町の北に「才の池」という池がある。市内でも指折りの大きな池で、池の名は、そこの地名で「才の谷」から名付けられたもので、昔から俗に、「雨乞い池」とも「尼ごぜ池」ともいっている。
この池は昔、王子山と天満山の両方から落ち込む水が吐け口がなくて自然に谷に溜まり、大きな渕になっていた。それでそのころの人々は、ここを「才の渕」といい、ものすごい深渕であったため、竜が棲むとか、大蛇がすむとかいったそうである。
竜が棲むということについて、1つの伝説がある。 才の谷の一方の山、すなわち王子山に延歴のころ(782~802年)建てられた大寺があった。古いことだから山号も寺号も分からないが、36も坊がある大霊場であったといわれている。その寺のあったころ、下の才の渕の南の方に1つの吊り橋を架け、向かいの天満山への交通の便にしていた。ある年(天承2年=1132年だという説もあるが)、王子山の寺から火が出た。火は物凄く、全山を火炎で包み込み、火の回りがあまりに早かったため逃げ場を失った者が多勢焼け死んだ。1人の尼僧がその寺にいたが、寺の宝としている黄金の半鐘が消失するのを憎しみ、猛火の中に飛び込んで、かろうじて半鐘を背負い出した。
そして天満山の方へ火を逃れようとして、才の渕の藤つるの吊り橋を渡りかけた。ちょうど尼僧が重い半鐘を背負って橋の中程まで走ったとき、すぐに燃え広がった火が山風に吹き下ろされ橋に燃え移った。藤つるで吊った橋だから一たまりもない。
橋が焼け落ちるとともに、尼僧も鐘を背負ったまま渕に落ち込んだ。すると渕に棲んでいた竜が突然現れ、その鐘を奪った。尼僧はたちまち大きな鯉となり、水中で竜を追ったが、力及ばず、怨みを永久に残してついに死んでしまった。
そのとき王子山は全山焼土と化し、荘厳華麗を極めた堂塔伽藍は跡形もなく灰になり、以後再建されることはなかった。尼僧がせっかく持ち出した寺宝の半鐘も、渕の底深く沈んだまま再びそれを見出す者はなかった。
村人は黄金の半鐘を永遠に渕の主に与えておくのを憎んだが、底知らずといわれた深い大きな渕の水を干すすべもなく、また竜神のたたりを恐れもして、そのままに幾年もの間過ぎ去った。ところが、ある年の夏、長い間一滴の雨も降らず、焼けつくような日照りが続き、どこの川も池も水が枯れ尽きた、何百年もの昔から底を見せたことがないといわれる才の渕も、その問いばかりは水が枯れ、萎えた藻におおわれた底がそこここに現れた。それを見た村人は、黄金の半鐘は底の泥の中に埋まっているに違いない、掘り出すのは今だと、鋤鍬を持って大勢集まり、多人数を頼みに竜神の怒りをも恐れず、底の泥を掘りかけた。その時、一天にわかにかき曇り、雷鳴は激しく天を震わせ、電は地を裂くようにものすごく走り出し、山をも溶き流すような大雨が強烈な風を誘って降ってきた。泥を掘っていた人々は、恐れおののき、あわてうろたえ、こけつまろびつしながら逃げ帰ってしまった。
そのあとは、瞬く間に水が満ち、再びもとの蒼々とした深渕となった。そのときかた誰いうともなく「才の渕の鐘を掘るまねをすれば、どのような大干にも必ず雨が降る」といわれるようになった。
その後、寛永元年(1624年)はどこも大干害で稲、畑作物はいうにおよばず、草も木も枯れ、人畜も倒れるほどであった。そのとき近郷の者が大勢集まり、才の池の鐘を掘り出しにかかった。果たして大雨となり、どこにも水が溢れだした。それからこの池を「雨乞池」と呼ばれるようになり、今でも大干害のときには、池の鐘掘りをすれば、必ず雨が降ると言い伝えられている。そしていま1つの不思議なことは、この池の中に棲む鯉の中には、往々一眼のものである。それは鯉に化した尼僧が、生前一眼を失っていたからだと伝えられている。このため、「尼ごぜ池」(注、ごはめしいのこと)ともいわれている。
(注、才の池にまつわる伝説は、加西郡誌の文章を引用した。)
やはり『吉野文書』を借り雨乞いの記録をみると、宝永6年(1709年)、宝歴11年(1762年)、嘉永5年(1852年)の夏、「才の池の鐘掘り」を郡中の人達が寄り合って行ったが、少しの雨も降らなかったと記録されている。
(6) 才の池にかかわる水論のこと
才の池はもと西横田村および東横田村両村の共同ため池であったが、両村の間で水争いがたえず起こっている。
寛永元年(1847年)11月16日、東横田村から大勢が押しかけ自分の村へ引く水を多くしようと、溝を掘り下げ広くしてしまった。このため西横田村の庄屋佐平次と国次郎、百姓代表藤在エ門が東横田村の庄屋七右エ門をはじめ、惣太夫ら百姓21人を相手取って訴えを出している。
16日の夜5つ半どき(9時)ごろ、才の池の堤から人の騒ぎたてる声が聞こえ大勢が集まっている様子なので、私の村方の作太夫吉兵衛が駆けつけると、相手方の者が、それぞれ鋤、鍬などを持って東横田村へ流れる溝を掘り広げていた。溝は深さ3尺5寸(約75cm)幅3間(約4.8m)もあり、驚いて役人に知らせた。西横田村の重立った百姓が揃って現場を見に行くと、道具を放り出して八方へ逃げてしまった。発見者作太夫ら3人が追いかけたところ、持っていた道具で少々けがをうけたが犯人は行方知らずになった。
3人はさっそく先方へ掛け合い、庄屋七右エ門が留守のため、年より頭百姓らに厳重に申し入れたが、聞き入れず、一向にらちがあかない。
「私の村は才の池の用水で年貢なども無事納めてきたが、東横田村に勝手に用水分量の溝を掘り下げられては年貢の方もどうなるか判らない。溝を元の仕切り通りにしてほしい」と重ねて訴えた。どちらに非があるかは解らないが、恐らく東横田村側にも溝を掘らなければならない深刻な事情があったのであろう。翌2年6月15日、役人2人が現場を検分し、村に泊まり込んで詳しく事情を調べ、どのような結果で収まったかは明らかではないが、一応この紛争は解決した。
このとき、役人の宿泊等に要した経費を記録した帳簿を見ると、上等の夜具を購入し、夜ごと按摩貫、うなぎ、どじょう代など、たくさんな品々と金額が並べてある。結局、西横田村が使った費用は銀902匁8分であった。これは当時の米十石(1500kg)に価する。使った米は1石6斗4升(約246kg)で、酒代だけでも銀41匁3分8里、これは当時の米3斗分(約45kg)である。
(7) 改修の経緯
右にのべた釣掘りの古い伝説や、用水のことで受益者両村間で争論が絶えなかった才の池の堤塘も、築造以来何度か改修されていると思われるが、記録が残されていないのでその内容は不明である。
近年に至り、老朽化も進み、漏水も多くなったため、昭和45年から46年度にかけて、老朽ため池事業(小規模)により大改修を行った。その概要は表1のとおりである。
※ 本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています。