地域のため池を探ろう!

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鮎屋川ダム(洲本市)

2021年11月25日

(1) 所在地 洲本市鮎屋字小谷、字一ノ瀬
(2) 型式と規模
 型  式 直線重力式コンクリートダム
 堤 高 46.2m
堤  長 198.3m
貯水量 1,800千㎥
      有効貯水量 1,604千㎥
      満水面積 12.3ha

(3) 防災ダム施設
  洪水吐 頂部越流型ローラゲート
      幅7.7m 高さ4.2m一門
  洪水調整施設 放流管径900mm 二孔
(4) かんがい地域とその面積(表1)

(注) 防災欄の( )内面積は防災単独面積である。従って防災面積のうち、126.3haは用水改良と重複する。昭和46年(1971年)作資料による

(5) 本事業の特色
 本事業の経緯については次に詳しく述べるが、本事業の内容は他のダム等と異なり3つの目的を持った多目的ダムとして築造されたものであり、その概要は次のとおりである。
 第一目的は、洲本市及び三原郡緑町を流れる洲本川支流の鮎屋川、初尾川及び樋戸野川、千草川、奥畑川沿岸の水田771.5haの農業用水の補給水源とする。
 第二は、鮎屋川底流部の耕地143.4haを洪水による被害から防止するための洪水調整ダムである。
 第三は、洲本市北部の丘陵地(山林)を開拓して、60.6haの受益地を造成し、畑地かんがい用水の水源とすること。
 以上の目的のためダムの容量は表2のように決定された。

 右に述べた目的により、この事業は「かんがい排水事業」、「開発パイロット事業」及び「防災ダム事業」の3つの事業からなり、いずれも農林省からの補助により兵庫県営事業として施行したものである。
 (6) 鮎屋川ダム築造に至るまでの経緯
 (1) 大広池の計画(通称落合の谷)
 昭和3年に6ヵ年の歳月をかけて完成した大城池は土堰堤で、その規模は自然と制約され、地区内のかんがい用水不足の解消には至らなかった。加えて大城池の完成により、畑を水田への転換と新規開田、さらに地区内に数多くあった井戸水汲み揚げによる用水を大城池への全面転換等により、一層用水に不足をきたした。また鮎屋川筋にある既得水利権者との間に、渇水時には取水問題で度々紛争があった。
 このため、これらの原因による水不足を解消する対策として、昭和8年大城池の貯水増を主目的とした大増築工事を起こし、従来の貯水量(944m3)に約103m2を増加してかんがい用水の確保に万全を期した。しかしながら大城池掛かりのみならず、鮎屋川筋においてもなお干ばつの完全解消には至らなかった。このため大城池の妹池を新設しようという計画が起こった。

 昭和14年夏、洲本市大野地区、三原郡広田村地区の鮎屋川水系の農業用水不足解消のため、鮎屋川通称落合に35ないし400m3級のダム(仮称大広池)の建設について、大野耕地整理組合長山口聞一氏が、ときの三原郡広田村助役西田実氏に呼びかけ両氏が提唱し、新池の建設について両新村で度々会合協議を重ね、県へ協力に働きかけた。
 ときの県耕地課長柳原鹿松は、翌15年5月、県で調整を行った結果、堤高約28mの土堰堤とし、その貯水量は約280m3、築堤工事費は約15万5000円が見込まれた。しかし、この計画は、農林省において投資効率が低いとの理由と、時局の情勢から採択されなかった。
 この結果、県では前記大広池計画より規模を大きくし、県営事業として計画変更を提案した。昭和16年夏、大城池下流四の瀬地点(現鮎屋川ダム上流)を候補地として計画書を作成した。
 ところが、この年12月8日、太平洋戦争の勃発により、この計画も中断するのもやむなきに至った。
 ちなみに、「大広池」の名は、用水掛かりである旧大野村と、旧広田村の両村名の頭文字をとってつけた。
(2) 第一次鮎屋川ダムの計画(落合の谷)
 鮎屋川西の瀬地点のダム計画が太平洋戦争のため中断されていたが、敗戦後の食糧増産対策に呼応し、地域農家の経営安定を図るためには農業用水の確保―「ダムの建設が急務である」との先人からの意志を継ぎ、昭和27年、ときの広田村長矢尾田京兵氏(現鮎屋川土地改良区理事長)の発意で「鮎屋川に200万m3規模のダム」を県営事業として建設することを強く県へ要請した。
 県においては、翌28年度新規調査地区としてとりあげ、ダムの候補地は戦前の第一次の時と同様、落合の谷に定め、計画をまとめた。
 そのときの計画概要を大城池の規模と対比して紹介すると表3のとおりである。
 新設ダムの貯水は鮎屋川に放流し、図3に示すように、大城池の上流の井堰(岩造岩井)から既設の大城池の隧道を利用して下流へ放流し、これにより左右両幹線水路(新設)により導水、地区内のため池へ貯水する計画であった。その総事業費は約7億円(内訳 県営6億8700万円)が見込まれていた。

 なおこれと併行して小谷地点(現鮎屋川ダム地点)での比較調査も含む、計画段階では順調に進んでいた。ところが昭和29年、町村合併促進法の施行に伴い、洲本市と三原郡広田村との合併問題、さらに県の財政再建の関係で今回の計画も再度中断するのやむなきに至った。

 (3) 第二次鮎屋川ダム計画(現ダム地点)

 第一次鮎屋川ダム計画が両市村及び県の諸般の事情により調査計画は中断されていたが、「鮎屋川にダムを」の声は一層強まってきた。
 昭和37年1月、広田村の一部が分村し、洲本市へ合併された後、洲本市議会議員であった矢尾田京兵氏が再度提唱し、ときの洲本市長山本安郎、三原郡緑町長片山秋津氏の両市町長名をもって「県営鮎屋川ダム建設促進」の陳情書を県知事坂本勝氏へ提出すると同時に同年5月、「県営鮎屋川ダム建設期成同盟会」を結成発足した。
 昭和37年度、県においてダム予定地点(現ダム地点)の地質調査と共に、かんがい、防災を含む総事業費8億7150万円の全体計画書を作成した。しかし、この計画では経済効果が低いため、当時脚光を帯びていた開拓パイロット事業を取り込んだ計画とする再調査の条件付で不採択となった。
(4) 第3次鮎屋川ダム計画―全体計画から全体実施設計の採択まで
 昭和38年度、事業の内容も、用水改良(かんぱい)、防災(防災ダム)とさらに開拓事業を合わせた多目的事業として再調整を行った。
 昭和39年4月1日、地元民待望の全体計画が農林省で採択され、事業着工に「ゴー」信号がついたのである。
 ちなみに、多目的事業名とその費用の振り分けは表4のとおりであった。
 なお鮎屋川ダム築造のため、ダム流水利権者との交渉は、「大城池誌」に詳述されている「下流水利権者との交渉にかかる記録」のとおり、ダム下流滝ノ下井堰田主について、大城池との間で結ばれた公正証書(昭和5年6月3日)の内容を尊重し、ダム築造後も河川の常流水を放流することで、了解同意を得ている。
 一方地元においても事業に対する体制を整え、昭和39年4月1日、農林省で全体計画が採択され、県においては同年5月1日付で、現地洲本市に「鮎屋川農業水利開発調査事務所」(所長以下技術吏員4名)を開設し、全体実施設計に取り組むと共に、地元態勢を固めた。  昭和40年4月1日、農林省で全体設計が採択されると同時に前記の「開発調査事務所」は「建設事務所」へと強化され、地元民一同の悲願であった鮎屋川ダムへの第一歩をここに踏み出したのである。

(7) 鮎屋川ダムの着工から完成まで
 昭和27年「鮎屋川にダムを」と提唱してから、苦難の13年後の昭和40年4月、鮎屋川ダム着工が農林省で認められた。難産であっただけに地元民の喜びはまたひとしおであり、着工を急ぎの声は地区内から沸き起こった。
 同年12月末にはダム周辺の用地買収補償が完了し、翌41年9月、ダムの仮設工事、床掘工事に着手した。
 昭和42年3月9日、洲本市、緑町関係者待望の鮎屋川ダムの礎石が、小谷の川底深くすえられる定礎の式が地元民の喜びの中で厳粛に執り行われた。
 ダム築造工事は、県、地元が一体となり、僅か3年足らずの歳月で小谷の谷に雄々しくそして美しいコンクリートダムが完成した。
 (8) ダムの完成と管理及び全体事業の経過 昭和44年11月26日、兵庫県知事金井元彦氏の手でダム放流ボタンが押されると満々とみたされた鮎屋川ダムの水は放流管から一大瀑布となり、中天に虹を映きながら鮎屋の滝へと放流された。このとき参列者一同から万歳の声がしばしどよめき、一同感激と喜びの中で鮎屋川ダムの完成を祝った。
 この堂々たる「雄姿」が自然の「恐怖」と立ち向かい、関係住民一同の安心感が強まり、最高度の利水につとめ地域永久の繁栄に寄与するダムであることを祈るとともに期待している。
 鮎屋川ダムの管理者である鮎屋川土地改良区において、ダムの安全管理と水難防止、併せて渓流水の増水、五穀豊穣家内安全を祈るため、役職員並びに有志各位(鮎屋川ダム築造の工事に従事した県職員も含む)の協賛により、鮎屋川ダム湖畔に水神祠(大城池上流鮎屋川産の巨大な自然石)を建立し、昭和52年10月10日、関係者多数参列のうえ遷座祭が執行された。ダムの守護神は、奈良県吉野郡東吉野村川上神社より御神体を奉遷した。
(注) 鮎屋川ダムの由来及びこれに関する記録は左記の資料によった
 1、鮎屋川土地改良区理事長矢尾田京兵氏所蔵資料及び同氏の口承
 2、鮎屋川地区全体計画書、同実施設計書を中心に約60haの開拓パイロット事業と、かんがい用水路の中央幹線水路、東、西幹線水路延長約10kmの工事も、昭和45年度にすべて完了した。これにより従来大城池によりかんがいされていた大野地区、並びに鮎屋川筋の旧広田村の全域を併せた約770haの水田の干害が除かれる他、鮎屋川下流低位部の耕地約140haが洪水による被害から免れ、地域の農業経営は安定し、多くの人達が恩恵を受けている。

 さらに鮎屋川ダムの周辺はハイキングコースとして最適の景勝地であり、ダム頂上から眺める眺望は特に素晴らしく、北方に淡路先山の姿がぽっかり浮かび、湖畔を歩けば山林のこずえが、心の安らぎを与えてくれる。
 ちなみに、昭和39年全体計画採択時から45年度完成までの、全体事業費等の推移を表5に記しておく。

※ 本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています。