野々池貯水池(明石市)
2021年07月05日
(1) 野々池の概要
野々池貯水池は国鉄西明石駅(現在のJR西明石駅)の北方、明石短期大学の北側にあり、池の東側は神戸市西区の水田地帯に接し、大久保陵台地を背景として、明石市の都市近郊にふさわしい農村刎頸の中で、周囲約2.1km、水面積が14.5haの大きな貯水池である。貯水池の北のほとりに明石市指定、文化財(記念物)に指定された「林崎掘割渠碑」が立っている。
野々池は遠い昔から、林崎堀割渠の水を溜め、近在の子池数10個とともに、今は西明石駅周辺の住宅地や三菱重工業敷地となっている、旧林崎村の水田約250町歩余のかんがい用水池であった。
長い歴史の中で、旧林崎村民に養水を給水していた野々池も、昭和30年以降明石市の急速な発展による上水需要に応ずるため、明石市水道部で46年度から3ヵ年の歳月も、約25億円の巨費を投じ、従来の農業用水の確保と合わせ、明石市民の命の網として「野々池貯水池」に生まれ変わり、計り知れない恩恵を地域の人たちに与えている。
(2) 野々池と林崎堀割渠の由来
野々池築造の事を記した古文書類は見当たらない。古老によれば約500年前に築造された池であると言い伝えられている。約330年前の明暦年間(1655~1657年)の頃、林崎堀割渠の開削が行われているが、堀割渠の発想は非かんがい期に、地区内のため池へ明石川の水を溜めようという考えから起こっている。
「林崎渠記」には池の名は1つも記されていないが、野々池はそれより以前からあったことは確かである。
明石市内にはたくさんの池があったが、昭和8年頃の文献(県耕地課。水利調査資料)によると、旧林崎6カ村のかんがい用ため池は野々池(水面積20ha、平均水深0.9m)を最大とし、ため池数は、17個、その水面積は約86ha、池の水深は1.2~0.6mの浅い皿池であったと記されている。
工事は明暦3年(1657年)冬の農閑期から開始され、翌万治元年(1658年)4月、田植前に幅1.5m、長さ5.375mの堀割渠が完成した。水の取入口は明石川平野町戸田で、印路の山裾を縫って、鳥羽六郷にある野々池に流れ込むようにした。
工事完成後は林崎堀割用水路の末端を利用して次第に新田を開発し、水田地域を拡げ昭和5年「河水引用工作物存置願書」によると水田かんがい面積は745町歩余にも及び、一大穀倉地帯であった。(注:かんがい面積の内には平野村の直接取水面積も含まれている。資料は当時の明石堀割土地改良区理事長 岸本憲治氏の所蔵による)
(3) 林崎堀割用水から取水していた関係地域の変遷と、明石市の対応
(3-1) 川崎航空機明石市工場(今の川崎重工業工場の前身)の誘致、進出のことについて、明石市の歴史から紹介する。
昭和12年、ときの明石市長で青木雷三郎という名市長が、軍需要景気でやっと活気づいていきた明石市に、ぜひ軍需要大工場を誘致しなくてはと考え、その当時水が不足して稲作に苦しんでいた林崎台地(現JR西明石駅の南台地)に同航空機工場を誘致し、合わせて、飛行場も造らせようと考えた。
この市長の努力で、60万坪(約200ha)という、当時では九州にある八幡製鉄所に次ぐ広大な土地をうまく斡旋して、川崎航空機明石工場を造らせた。これが今の川崎重工業工場となり産業の中心となっている。
(3-2) 戦後における地域開発に伴う変遷
戦後昭和30年代に入ってからは、地域開発の進展に伴い、水田の転用と地区内ため池の廃止が相次ぎ起こった。
昭和40年初期には、農家の減少が原因して堀割水路等の維持管理費の負担が困難な状況になった。
もしこの趨勢(すうせい)が続いた場合、農民の経費負担が更に増大し土地改良区の維持も困難となり、古い歴史を持つ水利施設が崩壊する事態にもなりかねなくなった。
(3-3) 明石市の対応
このような状況から明石市としては、歴史のある林崎堀割水路と、農業用ため池である野々池の有効的利用について検討を重ねた。
その結果、市水道部の英知と努力により、明石掘割土地改良区及び関係者と綿密な調整を図り、野々池を残存農地の農業用水源として水量を確保するとともに、明石市民の飲料水である上水の貯水池として活用することになり、古い歴史のある野々池の名前を残して「野々池貯水池」として大改造を行うことに決定した。
(4) 野々池貯水池改造の概要
野々池貯水池改造の概要を明石市水道部の資料により紹介しておく
本貯水池は、明石市市勢の進展に伴う水需要の増加に対処するため、明石川豊水期の余剰水を河道外貯溜することを目的として建設されたものである。この計画の特徴としては、地形、地積、工期などの問題を解決するため、既存の野々池敷を掘り下げ、この土を周囲に築造して必要貯水量を確保することにした。すなわち農業用ため池だった野々池の深さ1.5mの池底を約7m掘り下げ、堰堤を約6.5m積み上げ、貯水能力は従来の約18万トンから約8倍の141万トンに増やした。また止水方法として、アスファルトパネルを表面止水の型式で用いた。なお取水塔の塔心部に、明石川から揚水管を内蔵させ、エアレーションを兼ねて、塔の上部より落下させる形をとっている。
工事期間
着工 昭和46年11月
竣工 昭和49年5月
工事費(附帯工事含む) 約25億円
(5) 後日談
野々池貯水池が完成して、4年後昭和53年の夏は異常渇水に見舞われたが、明石市では野々池貯水池により、異常渇水を乗り切り、市内東部、中心部を断水から救った。
朝日新聞(昭和53年8月31日夕刊)に記事を引用して紹介しておく。
”ため池 渇水を救う 明石”
ため池改造の”ミニダム”が25万都市の渇水を救った。
明石市が4年前に25億円かけて改造した野々池貯水池で、近くの明石川の水をポンプで揚水、ほぼ10ヵ月かけて満水にし、水不足の夏場に放流する。異常渇水の今夏は、毎日2万トンも上水源として放流し続けている。
同市では、「野々池貯水池は、いまや明石市民の命の綱。これがなければ、8月は断水の連続だったろう。」といっている。
全国でも珍しい「揚水型ため池」利用は、淀川水系など広域水源を利用できない自治体の先見的な試みと改めて注目を集めている。
建設当時の同市水道部長、大谷英夫さん(明石市在住)は「豊かといわれている地下水には限りがあり、天候にも左右される。県営水道の完成には時間がかかる。地下水と、そのときどきの川水に頼るやり方だけでは、いまに大変なことになると思った。こんなに役立つことだでき、技術マンとしてこれほど嬉しいことはない。」と話している。
(注)参考文献
1.明石郡林崎掘割普通水利組合の古文書
2.林崎掘割記録集(明石掘割土改区保管)
3.史話明石城(のじぎく文庫)
4.明石郡農業水利改良計画書(明石市保管)
5.明舞団地の歴史(郷土史家 川口陽之)
6.明石市水道部 野々池貯水池概要書