地域のため池を探ろう!

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昆陽池(こやいけ)

2020年06月24日


(1)所在地  伊丹市昆陽字大池(旧摂津国川辺郡山本里)

(2)型式と規模
型式 土堰堤
堤高 3.6m
堤長 2.200m
水面積 17.1ha
貯水量 32,6000㎥

(3)かんがい面積   30ha(昆陽、池尻、寺本)
          ※規模は公園整備前のもの

(4)瑞ケ池築造の由来と争論のこと
 奈良時代の天平二年(730年)のころ僧行基が昆陽池を造ったと、行基年譜に記されている。行基年譜は行基の死後約400年後の安元元年(1175年)に、泉宿祢高父いずみのすくねこうふの手によって書かれたもので、川辺郡山本里に昆陽上池、昆陽下池、院前池、中布施池、長江池の五つの池、また昆陽上溝、下池溝を造ったことが記録されている。昆陽上溝、下池以外は手がかりになる材料が全くないので不明というほかない。
 行基が造った五つの池のうち昆陽上池、下池にかかる由来について伊丹市史(1.2巻)から紹介する。
五つの池のうち昆陽上池、下池は、そのどちらかが現在の昆陽池にあたると考えられるが、しいていえば上池にあたるであろうか。下池に関係する事柄として、いまの昆陽池とその西方の西野集落、及び西南方の池尻集落との間に昆陽下池と呼ばれる大きな池があって、豊臣時代の近世初頭までは昆陽池の西方にあった(現新幹線の沿線まで)の田地を養っていた。
 この池のことで、豊臣時代の末期に武庫川から取水していた昆陽井組(図2)との間に争論が起っている。その概要を伊丹市史第二巻(1969年編)から紹介する。

慶長13年(1648年)この下池を昆陽村、池尻村が埋めて田地にしたい旨を願い出た。ときの代官片桐主膳貞隆は部下に実地調査させた結果、池を埋立てて田地にすることを許可した。しかしこの措置に対し下池のかんがい地域である山田村以下四村が反対して訴えを起こした。訴えの内容は、下池を埋められては四ヵ村の下池掛りの田地に水を供給することになった。下池からの用水が、武庫川から水を引いている昆陽井の用水溝の下をくぐって流れているところがある。

そこが「大ゆりの樋」であるが、従来の「大ゆりの樋」は、丸木を溝状にくり抜いて水が流れるようにし、その丸木の上は板でふたをして昆陽井溝の下に伏せ込んでいた。それを、ここでふたをはずし透き間のある横板に取替えて上を流れる昆陽井の水がその透き間から「大ゆりの樋」へすいて落ちるようにする。こういう方法で下池に代わる水源を作れば、下池が無くなっても用水に心配はないであろうというのである。この条件で下池の埋立てが行われた。


 用水争論から推定しても下池があったことは確かであろう。その後も「大ゆりの樋」のことで争論を繰り返していることが伝えられている。昆陽池と昆陽井の管理についての記録を紹介しておこう。
昆陽井は水量が豊富な井筋であり、さらに昆陽池の水もあって井組内部での大きい争論はなかったといわれている。昆陽井に関する争論といえば、多くが、その取樋口附近の村々との争論であった。
昆陽池は昆陽・寺本・池尻三ヵ村の用水池であり、かつ昆陽井の井元である昆陽村は池元であった。昆陽池をはじめとする池やわき水の取締の支配は昆陽村のうちでも佐藤町のみで行っていた。

(5)昆陽池等の造られた経緯
 昆陽池が造くられた経緯については、自然地形的な考察から社会生活上、大自然に人工的な手が加えられてきた。
このことで、やはり伊丹市史第一巻に詳しく記載されているので紹介しておく。
 行基によって開かれた当時の昆陽池がどれほどの大きさであったかわからない。宝暦5年(1755年)の村明細帳や、文久3年(1863年)の昆陽池絵図によると、いまの昆陽池は東西500間(930m)、南北308間(570m)にわたると記されている。これをもとにして計算すると、約15万坪(50ha)の広さになる。現在は、約3分の1が埋立てられて、グラウンドに利用されている。 
 昆陽池付近には多数の相当な面積をもった池が散在しており、共通する点としてはほとんどが不整形で条里に合っていない。この池群の北の荒牧地域にも池がいくつかみられ、一ないし二町の方形あるいはそれに似た形を示し条里に合っている。従来、この地域一帯が台地のため、かんがい用水の便が悪く荒牧地域は近くの池だけでは水が不足するので、南に大きな池が造られたと解釈されてきた。行基もそうした点を考えて、5つもの池を造り農民のかんがいの便をはかったといわれてきた。
 伊丹台地には、意外に細かい起状があり、特に、鴻池、荻野から昆陽池にかけては、多くの旧川筋の後が見いだされる。また、伊丹市の中央部を横断して、一筋の陥没帯が走り、昆陽池をはじめいくつかのため池が存在していることがわかる(昆陽池陥没帯)。この事実から、次の事柄が想定される。この川筋が現実に川であったころ、この地域の水は、川筋を通じて南に流れていたが、昆陽池陥没帯が生じたのちは、南北に分断されてしまい、北摂津山地から流下する水は、陥没地帯で向きを90度近く変えて武庫川や猪名川に流入し始めた。洪水時は昆陽池陥没地帯にあふれ、南の台地を洪水に巻き込んでいた。また、陥没帯の北部地域は、内水の状態になり一帯が水びたしになっていた。
 南部地域が洪水に巻き込まれないように、さらに、南部地域へのかんがいを可能にするためよい方法がないか考えられた。
 昆陽池などは、用水不足を補うためだけに造られたのではなく、北部地域の排水対策も考えられている。川筋を利用し、又新しく溝を掘って、北部の内水を陥没帯まで導き、これを南側でとめながら周囲に堤を築いて池としている。このあたりの池は、北部の地域を耕地として安定させながら、池にたくわえた水を南に流してかんがい用水の効果を発揮させるために造られたと考えられる。
 こうした工事の指導にあたった人物こそ、行基にほかならない。しかし、このような状態が、天平3年(731年)のころのこの地一帯の状態であった根拠はなく、また現存する池のすべてが、行基によって造られたという証拠はない。前に記した意図を含んで、大規模な築堤、築溝の工事が行われたのは、行基の指導下においてと考えるほうがやはり自然であろう。行基の行った工事のうち、その方法をまねてまたいくつかの池が造られ、現在の状態になったと考えられる。

(6)改築の経緯
 約1250年余の昔、僧行基が造ったといわれる昆陽池は、今大きく生まれ変わっている。古い記録では約50haあった池の全面積も、今は約6割が埋立てられ、その水面積は17haと減少している。築造後、今日までに幾度かの改修が行われたことは明らかであるが、戦後においてもその改修工事の記録が残されていない。大きい水面積をもつ昆陽池の洪水吐のことについて、古老の語るところによれば、現在は池の南西部に人工的な構造で立派な洪水吐になっているが、昭和35年頃までは、自然な形で土俵によって水位を保ち、洪水時には土俵を人力で排除する原始的な形式だったといわれている。昆陽池の取水は池の北東部で天神川が右折れするところに取水樋門を設け、段丘地を開削して取水路としていた。洪水吐からの排水は松ガ丘の段立に沿って流れ、昆陽池掛りの茶屋樋用水路に合流後水路畦畔を溢流させて、河成層の湿地帯を流下して天神川へ合流させるようになっていた。しかし附近の農地が、37年頃に久保田鉄工、大日電線その他の住宅地に転用されたので、集中豪雨時に浸水する土地が出だした。この様な湛水を防除する目的で、かんがい用水路である茶屋用水路の一部を改修し溢水を防止しようとしたが、返って他の地域に被害が発生する危険があるので、既設洪水吐からの排除が困難になった対策として本水路の下流である寺本・池尻地域の三水路の改修が必要となった。用水取水樋については(図5)に見るように昆陽池の南側に3ヵ所あり、東から一ツ樋、ニツ樋西側にあるのが茶屋樋といわれ、35年頃までは、60ha余のかんがい用水を配水していた。


 昭和35年以降高度経済成長の影響を受け、特にこの地域は阪神都市圏に位置し、物理的条件が良いため阪神間のリビングタウンとなり、豊かな美田も住宅地化され、農業用水の管理はもちろん、大きい昆陽池の維持管理にも支障が起こってきた。ため池の保全と農業経営の安定化を図るため、昆陽池の管理代表者である伊丹昆陽農協と伊丹市との聞で慎重に検討された結果、歴史のある昆陽池を都会の中の野鳥公園として整備することに決定し、47年に5ヵ年計画で「昆陽池公園」として整備事業が進められ今は伊丹市民の憩いの場として広く市民に愛されておりテレビ等で都会の中の野鳥公園として全国的に紹介されたりした。
 その整備目標と事業の概要を次に紹介する。

(7)伊丹の昆陽池公園
-都会の中の野鳥公園-
 昆陽池は、伊丹市の中心部にあり山を持たない伊丹市として、昆陽池、瑞ケ池周辺は唯一の緑地帯でもあった。
急速な住宅地化が進んでいる伊丹市で、昭和47年に5ヵ年計画で、「環境美化区域昆陽池公園」の整備がすすめられた。その基本的な考え方を次の三点に置いている。
 (1) 静かな緑地にする。
 (2) 自然界のバランスを尊重する。
 (3) 一連の公園計画との関連をもたせる。
すなわち、都市公害に悩む市民の憩いの場を造るとともに、残された自然の水と緑の保全を図ろうとするものである。公園面積は約27ha、総工費約12億円(用地買収費は含まない)土一升金一升の伊丹市の用地として、思いきった勇気ある施策でもある。
 (ア) 施工上の基本的事項
 (1) 現在の池の面積27ヘクタール、貯水量30万立方メートルの水量は確保しつつ池床を掘り下げ、堤防を広げかつ一部に島を設ける。
 (2) 北側に野鳥、昆虫、魚類、植物等の生息空間として樹木帯、湿地、水辺植物帯と野鳥繁殖の島などを設け生物の生育繁殖地帯とする。
 (3) 西側、南側に公園施設として生熊観察所、展望室、管理室、展示室、カフェテラスなどを設けると共に広い草生地広場を設け、静的な休息の場所とする。またこの池畔は池が最大限に見渡せるところなので休息所もセットする。この公園での見せ場で四季を通じて楽しめるところである。
 (4) 池の水は、伊丹市民の上水にも農業用水にも使用する。
 (5) 貯水池南の広場は児童コーナーを考える。
 (6) 僧行基の偉徳をしのぶ施設を設ける。
上記の基本的事項により、現在の貯水能力を確保する目的で、南側のB工区は在来の池床から2.5メートル掘り下げ貯水量の増加をはかり、上水と農業用水の取水のため、在来の一ツ樋とニツ樋の2ヶ所を改修し、低水位時にはポンプ揚水により関係農地に配水することにしている。またA工区西側にある農業用水茶屋樋は、自然取水と人工池の補助的使命を考慮に入れて公園施設として水と緑の調和を図り、自然保護を目的として整備されている。
昆陽池公園整備事業に要した経費は表1のとおりである。

(注)伊丹市昆陽池公園整備計画書(昭和48年3月)による

 野鳥の飛来する人口島は日本列島を形どり、流入する汚水はすべて遮断し、武庫川の左岸昆陽井の下流から武庫川の伏流水を取り入れ、一部は猪名川の水を利用しており野鳥にとっても淡水生物にとっても汚染されないきれいな水で生活が営まれている。この広大な公園に、現在白鳥が60羽余り住んでいる。
 一般に動的な施設の多い中で、昆陽池公園だけは、「静」で統一され、美しい水と緑の森を念願し、市民ぐるみで努力している。なお昆陽池公園の模型は、市役所1階ロビーの北側に展示されてある。
昆陽池の水道面での利用は、瑞ヶ池の項で述べているので省略する。

  1.野鳥公園に関する事項は、新兵庫の自然(兵庫県生物学会編)の内容を一部紹介した
  2.昆陽池、瑞ヶ池にかかる参考文献
  ・伊丹市史第一・二巻(伊丹市)
  ・伊丹古絵図集成(伊丹市立博物館)
  ・新兵庫の自然(兵庫県生物学会編)
  ・大鹿土地改良区所蔵古図書
  ・瑞ヶ池老朽ため池補強事業計画概要書(伊丹市)
  3.作成にあたっては次の方々の協力、助言を得た
  伊丹市水道局工務課長 松岡弘之氏
  伊丹市元農政課長   関 三郎氏
  ※本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています