地域のため池を探ろう!

地域のため池を探ろう!

瑞ケ池(ずがいけ)

2020年04月24日

(1)所在地  伊丹市大鹿

(2)型式と規模
 型式   前刃金式土堰堤
 堤高   5.9メートル
 堤長   1,115メートル
 水面積 5.8ヘクタール
 貯水量 66万立方メートル(水道との共同事業による規模)

(3)かんがい面積  33ヘクタール(大鹿土地改良区)
          (注、昭和44年時点)

(4)瑞ケ池築造の由来と争論のこと
 戦前までは、旧大鹿村(現伊丹市大鹿)の水田65ヘクタールをかんがいし、その水面積24.8ヘクタール、常時満々と水を湛えていたといわれる瑞ケ池の築造された記録については、南にある昆陽池にかかるような古文書類は残されていないので不明である。
 大鹿土地改良区に江戸時代の前期、明暦3年(1657) の水論のさい、瑞ケ池上流側の荻野おぎの村が作った下絵図の写しを所蔵しており、これによると大鹿村の地域にごく簡単な形で描かれている池は、備前池、瑞ケ池、主膳池、尼ケ池である。(図2)絵図に領界道とあるのは荻野村と東綱置野の境界である。この絵図には池の名は記入されてなく、単に大鹿村池と記入されている。


 池の名が絵図の中に出てくるのは、元禄6年(1693)に起こった争論のときに作った絵図面である。
 これらの絵図面は伊丹市立博物館で作成された『伊丹古絵図集成』に収録されており、あわせて絵図の解説もされている。
 この絵図のうち、特に瑞ケ池に関係する争論についてその概要を紹介しておく。
 元禄6年(1693)の絵図面(図3)に伊丹郷が新築した奥谷上池、下池の池敷地のことで起こった争論の経緯が側書として次のように記載されている。
 伊丹郷の村々は、加茂井(猪名川から取水)の水だけでは農業用水に不足することがあるので、それを補う方法としていま緑ケ丘公園にある二つの池、昔、奥谷上池、下池あるいは伊丹池といっていた池(大鹿村内)を築造して用水をとることが考えられた。
 この池は大鹿村瑞ケ池から流下する水を引き豊臣時代末期の文禄(1592~95)の頃、片桐且元の検分をうけて築造されたといわれる。池の水は加茂井の水に合流して伊丹郷町を構成する伊丹、大広寺、北少路、昆陽口、中少路、円正寺、外城、野田、植松、上外崎の村々の田畑にかんがいされていた。
 上の記録から考えても瑞ケ池は文禄のころより以前、すなわち、いまを去る約四百年以前からあったことは明らかであるが、それ以前の記録については古文書に残されていない。
 また、江戸中期の宝暦6年(1756)、瑞ケ池掛りである大鹿、千僧と新田中野村が、池の上流側にある荻野、鴻池村を相手どって大坂町奉行所に訴えを起した水論があり、このときに作られた『宝暦6年鴻池村、新田中野村付近水利絵図』には訴人側、相手方双方にある池なり用水溝を網羅的に描いている。荻野村、鴻池村の各池、大鹿村の瑞ケ池、伊丹池、千僧村の今池、小屋池の名で描かれており、その当時の水利関係図としては非常に興味のある絵図である。
 このように古絵図に名のある瑞ケ池の改修等については記録が残されていない。ただ近年のことについては瑞ケ池を管理している大鹿土地改良区に残っている記録のみである。

(5)改築の経緯
 第二次大戦前の改修については、古老の語るところによれば、大正初期(1915年ごろ)上流面の波除石を施工し、昭和初期(1930年代)樋管を改修したことが伝えられているのみである。
大鹿土地改良区に保存されている記録によると、昭和28年の暴風雨により、池の南側の堤とう上流が崩れ欠壊する危険に遭ったため、昭和28年度に制度化された「老朽ため池補強事業」により、堤体の改修と洪水吐の増設を行った。
 その概要は次のとおりである。
瑞ケ池老朽ため池補強事業の概要
  工事期間 昭和29年
        〃 30年
ため池の規模
堤高 4.0メートル
堤長 2,000メートル
水面積 22ヘクタール
貯水量 25万立方メートル
流域面積 天神川流域(7ヘクタール)
かんがい面積 44ヘクタール
改修の概要(図4)
 南側堤体上流面(延長341メートル)
 上流面刃金工、張石工(上岡)
 洪水吐の増設1カ所(北西部)
総事業費 520万円
内  訳 堤塘工 4338千円
     洪水吐工 694千円
     工雑 168千円

(6)瑞ケ池貯水池改造の概要
 瑞ケ池公園に建っている記念像の裏側にある銅板の銘文によると、瑞ケ池の面積は25町1反(248ヘクタール)そのかんがい面積は65町歩(64・4ヘクタール)あったと記録されている。
 昭和30年代以降、大阪を核とする大都市圏内にある広大な台地という条件が、伊丹市の急速な発展に拍車をかけ、美田が次第に住宅地化され減少するにつれ、その水源である瑞ケ池の北側も一部埋立てられ、いまは三菱電機工場等の敷地へ転用され水面積も15.8ヘクタールと減少している。
 堤塘も水面が広大なため、波浪により上流面が崩れるとともに堤体全面からの漏水も多く、貯水量の低下をきたすとともに、洪水期には堤体が決壊する恐れが大きいため、昭和42年老朽ため池補強事業により、伊丹市で大改修を施工することになった。
 この時、瑞ケ池の管理者である大鹿土地改良区は、飲料水の不足に悩む伊丹市の要請に応じ瑞ケ池を農業用水と水道用水の貯水池として拡大改修するとともに、瑞ヶ池を入れた都市公園として整備することに同意し、農業用水を含めた共同事業として施工した。
 改修工事の工法及び施工計画は伊丹市と県耕地課(神戸土地改良事務所)で慎重に調査設計し伊丹市(水道部)が事業主体となり42年10月着工、44年3月完成した。
改修工事の概要は次のとおりである。(工事出来高設計書による)
(1)共同事業費
2億4980万円(内農業分4530万円)
(2)池底掘下げによる改修堤体規模(図5参照)
(3)取水施設
徒来の斜樋管を取水塔式に変更、揚水ポンプ新設
(4)貯水量の増加と、貯水方法
 改修前の瑞ケ池の貯水量は、大鹿地区の水田約33ヘクタールのかんがい用水
源として約30万立方メートルであったが、伊丹市上水の夏期における渇水対策
として約1カ月分の30万立方メートルを確保するため、池底を平均2.5メー
トル掘り下げ貯水容量は農業用水分も合せ66万立方メートルとしている。
 瑞ケ池への貯水は、さきに紹介した絵図(図3)にみるとおり、上流部荻野地域の水田からの排水を松が本溝(じゃら溝)を通して貯水されていた。昭和34年、三菱電機㈱が瑞ケ池の北側を買収して三菱電機工場を建設することになり、これを契機として瑞ケ池の集水区域であった旧荻野村と瑞ケ池周辺の水田が急速に住宅地化されてきたため、新規の貯水量増加分は猪名川の軍行橋下流約300メートルの右岸堤内に伏流水を取水する北村水源地を新設し、パイプで瑞ケ池へ送水して貯水する方法をとっている。

(7)瑞ケ池、昆陽池両貯水池と伊丹市の水道について
 伊丹市水道局の資料によると、瑞ケ池、昆陽池両貯水池へ、猪名川及び武庫川の水源と、深井戸水源から導水貯水留し、昆陽池の南に設けた千僧浄水場から全市へ配水している。配水能力は一日最大9万立方メートルであり、両貯水池が夏期の渇水期に威力を発揮している。
 水道施設系統図を図6に紹介しておく。
(伊丹市水道局提供)

瑞ケ池の銘(原文のまま)
 瑞ケ池は、古より摂津の国小池として親しまれ農地恵みの池であった。
その面積は二五町一反、受益面積六五町で常時満々と水を湛えていた。
大鹿土地改良区は、上水の不足に悩む伊丹市の要請に応え当池を水道貯
水池並びに都市計画公園にすることに同意し、昭和42年11月着工、
昭和四五年三月遂にこれを完成した。
 これにより、かんがい用水の確保はもとより伊丹市民の上水の水源として
活用されると共に、風光明眉な水の公園としてその期待は大きいものがある。
 ここにその完成を祝し記念の像を建て、永く市民の記憶の資とするものである。

昭和四十五年五月 伊丹大鹿土地改良区
(注)瑞ケ池南側の堤塘上に建てられた記念像の裏に銅板の銘がはめこまれている。
※本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています