地域のため池を探ろう!

地域のため池を探ろう!

栗栖池(たつの市)

2021年12月09日

(1) 所在地 たつの市新宮町奥小屋奥麦子
(2) 型式と規模
     型 式  中心刃金式土堰堤
    堤 長  89.8m
    堤 高  26.7m
    満水面積 5.4ha
    貯水量  530,000㎥

(3) かんがい地域とその面積 新宮町の栗栖川沿岸東・西栗栖・新宮・越部の一部約230haである。
(4) 栗栖池所在地の案内
 ・秘境栗栖池
 新宮から国道179号線を、栗栖川に沿って西北に進み、鍛冶屋の相坂峠の麓で右折、川沿いに、県道相生山崎線を牧谷にはいる。牧の麦子で再び県道を分かれて、左の谷を支流麦子川に沿って進む。麦子橋を渡って行くこと1kmあまり、川をせき止めて造った貯水池に着く。
 これが栗栖池で、ここは西地区の人でもほとんど訪れることのない、新宮町の秘境である。
 ここはもと大字奥小屋の奥麦子で、以前は民家が4戸あったが、池を造るために全戸移転し、田、畑、宅地一町八反歩をつぶし、戦中、戦後10年後と、多くの労力、資材と巨額の資金を投じて完成した西播磨第一の土堰堤である。
 ・栗栖川の水無川
 栗栖川は、奈良時代の『播磨国風土記』に『廻川』と記されているように、牧の沢の口と、栗町の田幸のところで大きく湾曲し、コの字形に流れている。
 それで川の奥の方は水量が豊富であるが、沢の口から下流時重、鍛冶屋にかけて土砂で川が埋まり、水は伏流水となり、降雨時の他は、川には一滴の水もなく、からからで、全くの水無川であった。そこまで村人たちはこの川を「水無川」と呼んでいた。

(5) 農業水利史の紹介
 西栗栖村に伝わる古文書類から、地区の農業水利沿革史の概要を次に紹介しておこう。
 1.江戸時代先人の努力
 江戸時代牧村竹の内周平は、竹の内や沢の口が水利の便がよくないのを憂えて、藩侯に請うて、竹の内に面積約五反歩の池を造った。堤防はすべて年度をもって築造し、堅牢で、これよりかんがいの便が開けた。
 また同村居村三郎右衛門は、同じく藩侯に請願して、牧村所属栗栖川の沿岸を、多くの私財を投じて堤防を修築し、その上、川中に伏溝を設置することを新しく発見、こうして水利のために尽くすこと数年、藩侯より、その功を多とし姓、古川を賜り帯刀を許された。後の村長古川艶太の祖父である。
 2.鍛冶屋のつるとべり
 時重はもともと畑地の多いところで、「時重煙草」としても有名であった。
 また鍛冶屋も畑が多く、古来豆類の適地で品質もよく、高価であった。柿も「鍛冶屋柿」といって栽培に適し収穫が多かった。ところが、明治20年頃から30年にかけて食糧問題がやかましく、両村落共これら畑地に多く開墾された。
 しかしここは、地勢上栗栖川の土砂の堆積個所で、水は地下の深い岩盤の上を流れ、川に水がない。したがってかんがいに井堰がなく、用水は河底に暗渠を設け、また深井戸を掘って水を汲み上げた。当時このあたりで暗渠49ヵ所、掘井戸は56ヵ所あったといわれている。井戸は大抵3m以上の深さで、晴天が続くと、毎朝暗いうちから水を汲むつるべの音を聞き、尻取り2,3人で綱を引き、こうした姿を毎朝見かけた。しかも、これが毎年のことで、これが有名な「鍛冶屋のつるべとり」で、そのため農家に嫁の来てがなかったほどであると、古老の間で伝えられていた。
 3.動力揚水と動力記念碑
 ところが大正11年末はじめてこの地に電灯が入った。また大正13年は、かつてない大干ばつであった。それが動機となって、鍛冶屋の新聞記者楠正治の提唱、鍛冶屋の藤網初治などの神領で、動力線を増設。大正15年動力機を取付け、6月の田植えより使用を開始した。 この時揚水機を設置したもの14ヵ所、これで毎年悩まされた栗栖川の水利も余程便利になった。いま鍛冶屋の牧道入口(JR姫新線の東側)のところに、法学博士清瀬一郎撰文の「動力記念碑」が建っている。

(6) 築造の経緯
 栗栖川流域は、西栗栖だけでなく、東栗栖、新宮、越部の一部にわたり、その耕地は、かんがい用水源の大部分を栗栖川にもとめ、山に沿ったところだけにため池によっていた。
 ところが、その後の耕地の増加と、川の土砂の移動で表流水が少なく、用水源確保の必要から、昭和6年、栗栖川奥に一大貯水池を建造しようとして、県耕地課の設計を見たが実現されなかった。
 昭和14年は、当地方希有の大干ばつで栗栖川筋の稲がほとんど枯死してしまった。そこで一大貯水池築造の必要が痛感され、栗栖村長栗本実丸氏をはじめ村会議員の協力と、衆議院議員小畑虎之助氏の絶大なる支援により、昭和15年、遂に農林省の国家予算が計上され、県営事業として栗栖池築造が決定された。
 昭和16年1月28日、現場において、坂県知事はじめ地元民一同歓喜のもと盛大に起工式を挙行、直ちに工事に着手した。
(7) 工事の概要と経緯
 ため池工事は、附帯事業としての幹線水路工事も併せ、昭和15年度より5ヵ年継続の県直営事業で、昭和20年の春、完成の予定であった。
 ため池は、栗栖川の支流である麦子川を堰止めることとし、敷地としてその下流の栗栖村奥小屋麦子谷にある奥麦子の地を選定し、奥麦子地区の全戸である現住者4戸の立ち退きをさせ、田畑宅地一町八反歩(=約1.8ha)を潰地とした。
 本事業の総予算を記録からみると次のように記載されている。
 本事業費総予算はため池に34万円、幹線用水路に32万円、その他組合経費及支線用水路に10万円で総計76万円、その負担率は国庫5割、県費1割5分並びに事務費約1割、地元2割5分とした。
 しかしその年太平洋戦争が始まり、人夫、資材が不足、地元民や、各種団体の勤労動員も行われたが、工事は停滞、予定の昭和20年の春になっても完成を見ず、その年8月終戦を迎えた。
 戦後は諸物価が高騰を続け、以前の百倍以上の費用を要するに至り、加えて県費の割当が少なく、一時中止の運命に至り、前途は全く憂慮されたが、栗本組合長の熱意ある請願により、工事事務所は閉鎖を見ずに継続することができた。しかし費用が少ないため工事は進捗せず、当事者の苦心は言語に絶した。
 昭和25年、既に工事に着手してから10年、なお完成の見込みがたたないので、組合長は一大英断をもって、早期完成の決意をかため、組合負担金の完納を強行、翌26年には、多額の県費予算を獲得、26年8月9日、遂にこの大事業である栗栖池の難工事が完成、喜びの竣工式を挙行した。
 これによって、今まで出水の時以外水を見なかった栗栖川に、干ばつで他の川に水が枯れ、揚水に奔命の際も、本流も、溝も、水が音をたてて流れ、昔のつるべとりや動力揚水さえ夢のようになり、多大の恩恵を地元民に与えている。
 昭和26年度完成時の事業概要を表1に紹介しておく。

(8) 改修の経緯

1. 余水吐の拡幅
 築造後すぐ、高堰堤設計基準等の改正により、計画洪水量が増加するため、溢流堰長を3m広げ、33mに拡幅するとともに、側溝敷を下げ拡大し、基礎グラウト工を、昭和30年度に老朽ため池補強事業(団体営)で施工した。

2.貯水容量の増加工事
 河床低下により、水田の減水深が増大し、用水に不足をきたしたため、主水源である栗栖池の堤体を1.0mに嵩上げ、貯水量を54m3増加(総量530.2000m3)することにし、これに伴い余水吐の改修並びに、斜樋の補強等の工事を、昭和42年度より団体営かんがい排水等で施工した。その事業費は10,150千円となっている。

 (注) 栗栖池事業の沿革、経緯等については左記文献等を参考として引用した
 1.西栗栖村史発行委員会
 2.動力記念碑文
 3.新宮町在住の郷土史家坂井 隆氏(元西栗栖村助役、坂井貞治氏の子息)
 保存の資料と口承によった

 ※本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています