地域のため池を探ろう!

地域のため池を探ろう!

神池(丹波市)

2021年06月28日

(1) 所在地  丹波市市島町神池(旧鴨庄村)
(2) 型式と規模
      型式 土堰堤
      堤高 27.0m
      堤長 173.0m
      満水面積 5.7ha
      貯水量 470千立方メートル
(注) ため池の規模は昭和55年度に完了した大規模老朽ため池事業による

(3) かんがい地域とその面積
 神池は氷上郡市島町(旧鴨庄村)神池に在り、氷上郡山東北部の6ヵ村(旧鴨庄、春日部、美和、吉見、前山、竹田)にまたがる農地約654.5haをかんがいしている。
(4) 築造の経緯
 この池が造られたのは昭和の初期で、神池敷地内に建てられている謝恩塔の碑文を読むと次のように刻まれている。
 昭和9年7月起工、13年12月竣成。神池と命名する。
 神池築造の経緯は右の碑文の他、昭和26年4月に建立された神池祈念碑にも刻まれており、これらの碑文や、地誌から引用して紹介する。


 1. 地域の概要

 神池が造られる以前の鴨庄南地区(旧鴨庄村)は、鴨庄川及び次の5つの池によってかんがいされていた。
 表1に見るように、この地区におけるため池の築造は比較的新しく、一番古いと思われる尾ノ地下池にしても築造後150年余にすぎず、また、明治、大正時代になっても主として農民の自力によって築造されたもので、いずれも池の規模は小さい。
 このように、弱小の水源しか持たないこの地域は、常習干ばつ地域で、日照りが10日余りも続けば、たちまち河川の水が枯れ、足踏み水車、撥釣瓶、投桶などで用水の補給をはかり、一度干ばつに遭えば家族をあげて河原に野宿して、水あげに苦闘する状況であった。
 2. 神池事業の発足
 昭和8年は大正13年に次ぐ、大干ばつで、その被害は甚大で、耕地の約4割が収穫皆無となり免租を受ける惨状を極めた。
 当時の鴨庄村長吉見伝左衛門氏は、村の将来を憂え村民の願望を達成するため、一大決意をもって当県局へ陳情した。
 即ち被害の惨状を訴え、新ため池の築造を強く要望する一方、山東北部の6ヵ村に呼びかけ一丸となって耕地整理組合を設立し、県営事業として新ため池の築造を県当局に請願するとともに、その負担金の全額を鴨庄村において寄附採納の申し出をしたのである。
 県は、干ばつの惨状と、地元村長の決意の程を知り、県参事会の議決を経て、昭和9年5月29日農林大臣に国庫補助の申請をした。
 その結果、主要水源である神池の築造は県営施行の条件で採択され、現地に「県営神池農業水利改良事務所」を開設し、所長(西鉢英之助)以下5名の人員を以て実施設計に着手し、同年7月9日起工式並に地鎮祭を行い工事に着手した。
 工事は4ヵ年の歳月を経て昭和13年12月に完成した。

(5) 事業施行の概要と地元態勢
 昭和8年8月農林省より野村技師派遣調査後直ちに県農地課長野呂勇之助外、技術陣並びに篠山耕地課出張所長神田栄太郎来村踏査のうえ神池地区が選定された。
 翌9年3月次のとおり基本設計ができ上がった。

1. 貯水量 470千立方メートルの神池の築造
2.  同  50千立方メートルの上牧池、岩戸池両補助池の築造
3. 神池より塚原川を合流し端よりハシ池、南東池、中池、尾ノ池へ通じる幹線水路(延長11km)の開削

 神池の大きさ及び堤塘の体形は表2・図2のように記録されている。
 次に事業費についてみると、当初予算24万8,000円のところ、実施の結果、基礎地質が予想外に悪く、床堀りとセメント注入等に多額の工費を要し、さらに資材、労務賃金の高騰により、既定の予算では事業の遂行が困難になったため、当初の事業費の範囲内で一応県営工事を終了し、引続き風水害応急事業として2万4,155円の予算を追加し27万2,155円を以って完成した。
 ちなみに、事業費の負担区分は表3のとおりであった。

 築堤工事のうち、床堀、セメント注入と基礎地盤面以下の鋼土詰め及び築堤土の締固めは県の直営で施工し、地盤上の築堤土の搬入は鴨庄村の請負工事とし、搬入は軌条による土運搬車を用い、締固めはすでて小松勢二十五馬力「トラクター」により七百貫(約2.6t)ローラーをけん引し入念に転圧した。
 一方地元側の体制は次のように記録されている。
 築堤用土の搬入は鴨庄村の請負工事となり、村は現場監督員を置き村内各区長に人夫の出没を要請したが、その時期は満州事変から日中戦争に突入し、国を挙げて戦時態勢を敷き、青壮年男子の多くは出征して労働力の確保には並々ならぬ苦労があった。
 又工事用資材、機材類も不足しがちとなり、物価が高騰して地元負担を負う鴨庄村は財源対策に非常な努力を払ったものである。
 ちなみに当時の物価は、米一升三十銭、牛肉百匁一円三十銭、新聞一ヵ月一円、土工の賃金は九十銭であった。
 事業費二十七万円余の工事の大きさや、出没人夫数がいかに膨大であったかが予想出来る。
 県の担当者や村長始め村の幹部は勿論のこと、村民の一人ひとりに至るまで強い心のつながりのもとに、それぞれの役割を分担し、全力を傾注して工事の完成に邁進したのである。
 事業費支出の内訳は表4のように記されている。

 竣工見通しのついた昭和13年9月より貯水を開始、翌14年6月計画水深18m近くまで貯水し名実共に竣工した。
 昭和初期の鴨庄地域の水利改良を基幹とする鴨庄村の一大振興事業は後に補完事業として、幹線水路の一部利用による南、喜多の揚水施設、柏野原野の開拓、水田開発を残して、太平洋戦争の終戦時には根幹工事のほとんどを完成することが出来たのである。
 神池の完成による効果は膨大なものである。即ち毎年米1200百石の増収とかんがいに要していた用水管理費の節減を図る直接効果の他に、鴨庄地域は勿論のこと、更に竹田地域に至るまで水の恩恵を受けて、住民に水に対する安心感をもたらしている。
 「神池は本村久遠の宝庫であり、地域振興の基礎資源である。」と記念碑にとどめているのも頷ける。

(6) 神池の由来と他地域への影響
 ため池の所在地は字神池にある。
 神池の近くに妙高山がそびえその山頂の神池寺は法道仙人の開基と伝えられる。
 古文書によれば「法道巡錫として此の所に来る。乃ち地を卜して所持の観世音銅像を安置し、伽藍を建立して専ら布教道化す、山形須称に似たり、故に妙高山と号し山嶺に沼あるを以て神池寺と称すと云えり」とある。
 神池の地名はこの寺のいわれにより付けられたものであろうか。
 ちなみに落合重信氏のひょうご地名考の中では「氷上の里」について、「氷上郡の中、北部及び山を越えた東の市島町鴨坂、鴨庄などの地名は、京都賀茂神社の荘園であったところである。賀茂神社は荘園が全国に二百ヵ所あるといわれる程の、絶大な勢力でもあった。
 そのため賀茂信仰は氷上一円に広がり、賀茂堤をつくったり、神池をつくるなど農業生産面にも大きな役割を果たした」と語られている。
 神池築造の成功は氷上郡内の人々に大きな影響を与え、農業用水不足地域に大規模の用水計画がたてられ、新しいため池が次々に生まれる先駆けとなった。
 即ち昭和24年、美和村与戸(現市島町与戸)に永郷池(貯水量96,000m3)が、国領村国領(現春日町)の長谷大池(貯水量483,000m3)が昭和33年に、続いて市島町徳尾の大杉ダム(貯水量926,000m3)が昭和49年に完成した。
 なお春日町においては、慢性水不足に悩む東部地域約200haの農業用水確保のため、昭和55年から農業用ダムの建設を計画し、現在農林水産省と県で、調査設計中である。
 神池築造後昭和15年11月3日と、ときの青年団により紀元2600年記念事業として、神池築造の偉業をたたえ、当時の村長はじめ関係者各位の苦労をしのび、その功を永く残すため、神池敷地内に謝恩塔が建立され、碑の横面に村長吉見伝左衛門氏の撰文で、神池築造の由来が詳しく刻まれている。

(7) 改修の経緯
 神池築造後、昭和53年に行った大改修以前のことについての記録は残されていないが、昭和25年に堰堤中心部下の底樋(直径1mのヒューム管)屈曲部と、余水吐越流堰(栗石コンクリート造り)からの漏水が多いため、漏水防止対策としてセメント注入工を着工した。
 また余水吐の放水路延長97.56mは東側山腹岩盤を隧道で貫き下流放水路に接続させている。
 その断面は図4のように、幅2m、高さ2.3m、天井部は半径1.25mの孤形とし、厚さ25cmのコンクリートで巻立てた構造で施工されているが、池の水位が高くなると、天井部からの漏水が多くなったため、漏水防止を崩壊防止のため、セメント注入工を施工した。

 (注) 昭和25年の工事は、現在の県単土地改良事業の前身である「かんがい排水補強事業」で行った。
 改修工事の概要は当時この工事に従事した、元農地整備課長補佐谷田健蔵氏の記憶をもとにした。
 築造以来維持管理に万全を期し、地域の宝として大切に守られてきた神池も、40年余の星霜を経て、余水吐きの放水路(隧道)が老朽化し漏水量も多くなったため、昭和53年から県営事業(ため池等整備事業)として大改修を行った。
 その概要は表5のとおりである。

(8) 神池弁天宮と記念碑について
 神池の弁天宮は、昭和15年神池将来の無事を祈願し、池の守護神として、竹生島より御神体の勧請を依頼し弁財天をお祀りした。
 〇記念碑について
 昭和26年4月16日神池の恩恵を感謝するとともに、当時の国、県関係者並に村長他村内外の尽力された人々に経緯と謝意を表するために記念碑を建立した。
 (注) 1.参考文献
 ・鴨庄村誌に記載されている早瀬技師の資料から引用
 ・鴨庄土地改良区理事長大井徳之助氏の助言と保管資料によった