地域のため池を探ろう!

地域のため池を探ろう!

大門池

2021年04月19日

(1) 所在地 三田市北浦字大門
(2) 型式と規模
     型式   土堰堤
     堤長   6メートル
     堤高   66メートル
    満水面積 2ヘクタール
     貯水量  400千立方メートル  (注) 県のため池台帳による

(3) かんがい地域とその面積
 三田市の北西部北浦の水田約15haをかんがいしている。
(4) 池築造の経緯
 昔、法道仙人が摩耶山頂より北方をながめられ、三田市乙原の西にそびえる秀麗な高峰を、これこそ仏法伝導の好適地だと思われこの地に広大な寺院を建立された。この山を千丈寺山、寺院を千丈寺山と称したと言う。寺院の前方に大きな門があったので、そのあたりは大門と呼ばれていた。千丈寺は戦国時代の末期、丹波八丈主波多野秀治の夜襲にあい焼失してしまっている。大門の地にある大門池がいつごろ造られたかは不明であるが、文化10年(1813)に改修された記録があるところをみれば、かなり以前、江戸時代中期頃には造られていたと推定される。


 三田は旧幕時代には九鬼氏三万六千石の城下町として栄えていたのであるが、当地方は水に恵まれず、ため池が造られる以前は畑地が多く茶と菜種が栽培されていたという。九鬼氏は新田開発を図るために、ため池を造り畑地を水田にかえ、水田の拡大に伴い、更にため池を大きくしていったといわれており、大門池も水田の拡大を図るため農家の苦心の末造られたのであろう。
 文化10年(1813)ため池の樋を改修するに当たり、奉行に願い出た古文書がある。当時の状況を伝えるものとして紹介しておく。
乍恐奉願申上候
大門池立樋腐申候付 乍恐御払木之内
壱本頂戴仕度御座候 何卆
御上様御慈悲之上右壱本御下ケ遣シ
被為 遊被為 下候ハバ難有仕合ニ可
奉存候 以上
文化十年 酉之二月二日

(5) 池の特色
 谷筋の上流に造られたため池で、流域は小さく特筆すべきものではない。貴重な水がめであり池に接して弁天さんが祭られ、雨が少ないときはよく御酒を奉じて雨乞いしたと今も伝えらえている。
(注) 参考文献
 有馬郡史、大勢英次氏(元、北浦区長)所蔵の古文書と口伝による

※ 本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています。