ため池保全県民運動

ため池の紹介

天満大池

2021年04月24日

(1) 所在地 加古郡稲美町六分一
(2) 型式と規模
   型式 南側堤体 土堰堤
    西側堤体 県道の上流側
    重量式コンクリート擁壁
    堤体 土堰堤 4.0m
    擁壁部 3.5~4.5m
    堤長 土堰堤 535m
    擁壁部 803m
    貯水量 410千m3
    満水面積 30.5ha

(3) かんがい地域とその面積
 稲美町の南西部旧天満村の蛸草郷六ヶ村の地域で、地区内の点在している15個のため池と合わせ305haをかんがいしている。

(4) 築造の由来
 天満大池は古くから「岡大池」といわれ、その所在は不明であるが、いまの天満大池の始祖ではないかといわれている。岡大池の築造年については、国安天満神社に所蔵されている古文書によれば「白鳳3年(675年)岡大池を築く」とあり、郡内でも代表的な古いため池である。
 現在天満大池改良区に保管されている絵図面(江戸時代前期寛文6年=1666年)では現天満大池鳥観図と同じ形で「蛸草大池」と呼ばれ、蛸草郷6ヶ村、中村、森安、六分一、北山、岡村、の立合の大池であった。また明和元年(1764年)の六分一村明細帳によれば
一、大池東西350間(約630m)、堤長903間(約1,625m)、根置拾間(18m)、馬踏四間(約7.2m)、六ヶ村立合、※1水高1643石斗、此流筋明石御領神出の谷田地□手中かれ川筋印南走り掛り申候
とある。水源は明石郡神出の天王山からの水をよせ集めた手中流である。

(注)※1、水高と石について
水高とは水掛地区(大池の受益地)の収穫高を表したものと思われる。明和元年前後の大池掛りの耕地面積は、田127.9町歩、計164.1歩(稲美町史による)と記録されているが、その石高との関係は不明である
 

(5) 天満大池にまつわる水論について
 蛸草大池郷は先に述べたように、神出天王山よりの水をよせ集めた手中流は蛸草郷の村々の命の水であった。それだけに手中流に関する争いも古くから相次いで起こっている。
 国安村の「蛸草大池、岡村溝ヶ沢池立合手手中流」に関する口上書によって、その変遷をたどることができる。その1つとして元和7年(1621年)姫路城主本多忠政、明石城主小笠原忠真のとき、この手中流をめぐって藩をこえた争いが起こっている。その経緯概要を紹介しておこう。
 神出の手中に明石領側は新池を築いた。これに対し、蛸草郷の方からは、新池を築かれては蛸草郷に水が流れてこず田地養水が不足するので明石藩に訴えてこれが認められている。
 紛争が、わりあいに容易に運んだ背景には、姫路藩主本多忠政と明石藩主小笠原忠真が義理の父子の関係にあったこともあったのであろう。結果は手中の池は堤の真中より切り離され、そのためにのち「手中切池」と呼ばれるようになった。  寛文年間(1666~1670年)、元禄年間(1691~1696年)にも水論が起こり、京都所司代へ絵図、証文を提出し、蛸草6ヶ村の用水難を訴えた。その結果、これが聞き届けられ神出庄内に対し、古来の通りすべきことが命ぜられている。
 
つぎに蛸草郷と印南新村との間で起こった水論の概要を紹介しておく。
 蛸草大池郷は先に述べたように、神出天王山よりの水を集めて用水源としていた。ところが江戸中期の正徳年間(1711~1715年)、神出と蛸草郷との間に印南新村が新田村として成立した。印南新村は高位台にあるため、極めて水が乏しく、ため池によって水不足を改称しようとしたが、それは水下にある蛸草郷にとっては重大な問題であった。印南新村が成立してからほどなく元文2年(1737年)以降何回となく池郷との間で紛争が起こっている。
 蛸草池郷と印南新村との争いは、蛸草大池が神出から印南新村が経て流れてくる水を水源とする限り不可避であり、ときには実力行使をも伴う、極めて切実なものであった。
 ちなみに「蛸草大池」が、いつ頃から「天満大池」といわれるようになったか、その由来についての記録はなく、またその口伝も伝わっておらず不明である。民族的に推理してみると、「蛸草大池」の掛りであった蛸草郷6ヶ村が、明治21年4月に合併して「天満大池」となったとき、池郷の人達がその地名をとって「天満大池」というようになったのではないか。

(6) 天満大池改修の経緯
 天満大池の築造は古く、先にも述べたとおり江戸前期の寛文6年(1666年)の絵図ではいまの大池の規模をもっており、その堤長も約1,625mという大きいため池であったため、何回か改修されていると思われてるが、これらを記録した資料が残されていないので不明である。
 近年にいたり、戦後の昭和20年10月8日~10日の阿久根台風により、大池の南西部が決壊。その洪水は河原山池の西側道路上の堤塘を押し流し、放流は一挙に下流の川池を巻き込み、国道2号線から山陽本線の土山駅にも大きな被害をもたらした。この大災害により、大池の南側土堰堤の抜本的な大改修の必要性が叫ばれてきた。ときあたかも戦後の食糧増産対策に呼応して、堤体の改修と合わせ、貯水量の増加をはかることを目的として「小規模かんがい排水事業」が計画され、28年より着工された。
 その計画は現満水位を約60cm上げることにより、貯水量を2倍弱の約68万9000m3に増築しようとするものであったが、そのためには、池の上流にある水田の約14haの嵩上げが必要であることと、水田の排水にも多くの問題があり、これらの円満解決には、時間的にもまた資金的にも困難視されてきた。このような事情から工事途中で計画変更を行い、表1の概要のとおり実施した。
 天満大池の改良工事が完了すると共に、この大池を主水源とする水田約300haと、大池の東側の水田を合わせて約500haの耕地が昭和43年度から5ヶ年の歳月をかけて「県営ほ場整備事業(稲美南西部地区)」で整備され、農業経営の近代化、合理化が強力に押しすすめられ、県下でも模範的農地として注目を集めている。
 またこの事業で、大池の水論の種であった手中の流(枯川、また地元では王余魚川(かれひ)ともいわれている)は排水路として整備された。
 さらに用水確保のため天満大池の子池である河原山池は、近年老朽化が進み、漏水も多いので昭和56年度より、ため池等整備事業によって県営で全面改修中であり、その効果は、関係地域の農業経営の安定化のみならず、都市近郊で自然の水と緑をもって農村景観の保全にも大きい役割を果たすものと期待されている。

(7) 天満大池と天満神社にまつわる伝承
その一
 鎌倉時代の末期、明徳元年(1390年)5月の頃、上方から律僧(大和の唐招堤寺を本山とする律宗の僧侶)がこの地へ来て、国安や岡のあたりの景色の良いのをめでて、少し休ませてほしいと申し出て、天満神社の相殿(この頃は中央に池大神が祀られていたので、この時の相殿は菅原道真公であった)の西方を囲んで逗留することになった。
 その頃、大池に夜な夜な光る雑魚が平らになって浮かんだ、人々が怪しんでこの事を律僧に告げると、律僧が「大池に弁財天島はあるか」といって尋ねる。「島はありません」と答えると、律僧が教えて「このような大池にはきっと竜が住んでいるはずだ。これはその竜のするわざだから、島を築いて弁財天を祀るが良い」と言う。村人達は急いで築き弁財天を祀った。するとその怪しい災いはぴたりを止んだ。こうしてこの神社にも左の相殿として弁財天が祀られることになった。

その二
 正親町天皇の天正8年(1580年)の頃、豊臣秀吉が三本の別所氏を攻めた時、播州一円の城砦や神社を打ち壊し回った。この天満神社社殿をも取り潰しにかかった。すると社殿の傍らの神木から社殿の上へ大蛇が頭を出して来た。秀吉がこれを見て「捨て置け捨て置け」と二言いったので、社殿は取り潰しを免れた。現在、本殿の裏側塀に近く数本の杉の巨木のすでに枯れて根本から3mばかりになったのが残っている。これがその大蛇のいた神木であろうと言われる。