地域のため池を探ろう!

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【鴨池「続・ひょうご水百景」(姫路市)】

2021年02月09日

県内各地の河川やため池など、水辺に係る歴史や文化を取材し、その成果を「ひょうご水百景」として纏められてる県職員OBの松本幸男氏(現 ㈱日水コン)が、このほど、姫路市林田の鴨池を取材された「続・ひょうご水百景」を発刊されましたので、紹介させていただきます。
■ 林田八景の一つ~「西池と琵琶山」
上の写真は、鴨池に突き出た弁天島を撮ったものです。弁天島にはサルスベリの木が数本植えられていて、本来なら、8月下旬から9月初旬にかけてサルスベリの赤い花が鮮やかに咲くのですが、昨年はなぜか花がパラパラと見えるだけでした。
この鴨池は、元は「西池」と呼ばれ、林田藩祖・建部政長(たけべまさなが)が水利に苦しむ領民のために築いたものです。また、池の南東にある山が湖面に映り、それが琵琶の形に見えることからその山は「琵琶山」と名付けられ、これらの美しい景観「西池と琵琶山」は「林田八景」の一つに数えられています。

■ 池田家後の姫路藩は本多忠政を中心として分割支配となる
慶長18年(1613)、姫路藩主・池田輝政が没すると、跡を継いだ利隆は、次男・忠継の夭折(ようせつ)後に岡山藩を継いでいた三男・忠雄(ただかつ)に播磨国内西部の13万石を譲り、39万石となります。元和2年(1616)、利隆が若くして没する(享年33歳)と、嫡男・光政は幼少(当時7歳)のため要衝の地・姫路は任せられないということで、鳥取藩32万石に転封となります。
元和3年(1617)7月14日池田氏に代わり本多忠政が15万石で姫路に入封します。その後、忠政の次男・政朝が5 万石で龍野藩に入り、二代将軍・徳川秀忠の娘千姫(豊臣秀頼未亡人)と結婚した忠刻(忠政の嫡男)が、父とは別に播磨国内10万石を領して、播磨は譜代の名門・本多家(総計30万石)によって固められました。その他の旧池田家の播磨の所領は、小笠原忠真の明石藩10 万石、池田正綱の赤穂藩3.5万石、池田輝興の平福藩2.5万石、池田輝澄の山崎藩3.8万石、池田重利の鵤(いかるが)藩1万石、建部政長の林田藩(※1) 1万石の中小藩に分割されています。
※1 林田藩:江戸時代、播磨国揖東(いとう)郡にあった藩。藩庁として林田(現・姫路市林田町聖岡)に林田陣屋が置かれた。建部家は外様大名でありながら、明治維新まで一度の国替えもなく250年余りにわたり林田藩を治めた。

■ 林田藩初代藩主・建部政長が西池(鴨池)を築造
元和3年8月24日、摂津尼崎にいた建部政長が林田藩に移封されます。
初代林田藩主となった政長は、直ちに藩内を巡視したところ構(かまえ)村の農地は用水が不足しがちで、農民が非常に困窮していることを知ります。そこで、早速山谷の地形を測量し、新規に溜池(西池)を築造、上構・中構・久保・下構の四ヶ村の用水に充てます。しかし、池の集水面積が小さく十分な貯留量が確保できないため、約2,500m 離れた六九谷(むくだに)の北(六九谷字洪水)まで用水溝を掘り、林田川に井堰(洪水井堰)を築造し、そこで取水した水を西池に導水するようにしました。

政長は、西池築造の際、池中に須浜(州浜)形の小島を築き水の神である市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を祀りました。
以後、関係集落では須濱神社として尊崇することに。(冒頭の写真参照)
西池の南東隅にある「林田西池碑」によると、土堰堤の高さは4m、満水面積4ha、貯水量137,000㎥だそうです。「林田西池碑」に刻まれた碑文は敬業館(※2) 教授・石野鄰卿(じゅんきょう)の撰文で、文化13年(1816)に建立されたものです。
碑文は、藩祖・建部政長の武功や西池築造の由来、三代藩主・政宇(まさいえ)が西御殿「発興亭」を造った事績、さらには七代藩主・政賢(まさかた)は学問が好きで藩校「敬業館」を興したことなどが記されています。八代藩主・政醇(まさあつ)の頃、西池を禁猟区とし鴨にえさを与え保護するとともに、西御殿から観賞したようで、いつの頃からか「鴨池」と呼ぶようになったとか。今でも冬場になると鴨が飛来しています。
※2 敬業館:七代目藩主・建部政賢が寛政6年(1794)に建てた藩校。寛政12年(1800)、政賢が定めた心得「示」が掲示されていて、藩士の子弟は8歳になると必ず入学し16歳で卒業した。また、武士だけでなく庶民の志願者にも入学が許可されるなど、士庶共学として全国的にも珍しい藩校であった。

■ 藩命に背いてまで溜池を守った藤井市右衛門
寛政4年(1792)、鴨池(西池)をめぐる水争いに際し、藩命に背いた罪を一身に背負って刑死した義民・藤井市右衛門を紹介します。(『林田郷土誌』から引用・加工)
寛政4年6月(グレゴリオ暦では7月19日~8月17日)は、焼けつくような日照りが続き、見事に育った稲もやがて変色して枯死寸前の状態になっていました。農民は天を仰いで雨乞いをしますが、雨は一向に降る様子もなく、どうすることもできません。藩祖・建部政長は、このような状況に備えて西池を築造したのですが、日照り続きに池の水は残り少なく、日々少しずつ落とす水では焼け石に水という有様でした。領内の南の村では稲を枯らすまいと、西池の水を分配してもらうように藩に願い出ます。しかし、この水は中構・上構・久保・下構の四ヶ村のものなので許可は下りません。南の村はあきらめず再三再四分配を願い出たので、藩はついに南の村へ水を分配することを許可します。
西池の中の樋(大のみ)を落とすと、水は桝池の北側を通って西(「東」の間違い)に流れ、さらに桝池に沿って南流して行くことになります。白く地割れした田地を前に、桝池の北東堤下の分水点まで水が来た時、四ヶ村の農民は必死になって南流する水を堰き止め(自分たちの田んぼに水を引き入れようとし)ました。
こうして四ヶ村の農民は藩命に背いたため、首謀者を処罰する詮議が行われます。市右衛門は身分の低い農民であり、責任を負うような立場ではありませんでしたが、人々を救うため責を引き受けて捕らえられ、翌寛政5年(1793)2月17日61歳で刑場の露と消えます。その上、家族は林田川の川向うの龍野藩領・口佐見村へ追放されました。争いの元となった西池は本来四ヶ村の溜池でしたが、南の村の干ばつを救うために藩費で湯溝(水路)が造られました。

■ 釈然としない市右衛門の処分
『林田郷土誌』では、「市右衛門の死は無駄ではなく、藩命に背いた他の農民を救った上に、永く恩恵を人々に及ぼした」と記されていますが、何か釈然としません。
市右衛門は身分の低い農民で、中構村のあるき役(※3)を兼ねる三木家(※4)の用人だったとされています。ということは、市右衛門は、三木家の小作人でもあったということでしょうか。小作人は、本百姓と異なり田畑を所有せず、そのため一人前の百姓と見られず、村政への参加は許されなかったそうで、それゆえに首謀者であるはずもありません。そのような市右衛門が、藩命に背いた大勢の農民の責を一手に引き受けたとしても、藩が真面目に詮議すれば「これにて一件落着」にはならないはず。藩と三木家と市右衛門の間で何かがあったと思わざるを得ません。
西池の南にある洪水吐の近くに、藤井市右衛門の碑があります。(左下の写真)明治13年(1880)に四ヶ村の人々が相談して「利道剣正信士(しんじ)」と刻んだ石碑を建立したものです。この戒名の最後の2 文字が「位号」といい、仏教徒である成人以上の男女には「信士・信女(しんにょ)」、人格・徳に優れていて信仰心が篤く寺院・社会に貢献した人には「居士・大姉」という位号が付けられるという決まりがあるとか。ケチをつけるつもりはありませんが、明治になって石碑を建立しているのですでに廃止となっている藩に対する遠慮などしなくてもいいのですから、多くの村人の命を救った市右衛門には、「居士(こじ)」の位号を付けてもいいのではないでしょうか。

※3 あるき役:職務内容についてはよくわかっていないが、その名称から大庄屋の管轄する池、入会地、用水、村々のとりまとめ、裁判(調停)等の役目の中で、池や用水を見回り管理する役職で、大庄屋の指示を受けて雑用係、小間使い、使い走りのような仕事をしていたのではないかと思われる。一説には、情報収集の手段が今ほど発達していなかったので、人から人、家から家を歩いて回って情報収集するとともに、お達しなどを各家に伝えていたのではないかという説もある。さらには、他の家と違ったことをすることがないように村の中の統制役もあったのかもしれない。
※4 三木家:林田藩では、17世紀の半ばから新田開発が進み、村はかつての25ヶ村から40数ヶ村になっていた。これらの村を4~5組に分け、それぞれの組を統括したのが大庄屋で、三木家は代々林田組の大庄屋を務めている。大庄屋は苗字帯刀が許され、藩から役儀を申し付けられる場合は家老宅で奉行や大目付などとともに列座して受けるなど、庄屋とは別格の扱いだったといわれている。百姓の利益代表は村方三役(庄屋・組頭・百姓代)の組頭で、大庄屋は統治者側の立場だったと考えられる。その証拠に天明の一揆では、大庄屋・三木家も打ち壊しの対象となり、家の柱にはその際に付けられた疵が残っている。
三木家の先祖は、天正8年(1580)4月、羽柴秀吉によって英賀(あが)城が攻め落とされた時の城主・三木通秋(みちあき)である。通秋は天正10年(1582)秀吉に許されて英賀に帰り、郷士頭となり翌天正11年(1583)に死去。通秋の弟・通基(みちもと)は関東に逃れた後揖保郡香山(こうやま)村に住み、もうひとりの弟・定通(さだみち)は宍粟郡門前村に逃れ、その後林田に住み着く。この定通が三木家の祖となり、その後通基も定通とのつながりから林田に移り来て、六九谷の三木家の祖となる。

■ 釈然としない処分の背景に天明の大飢饉で起きた百姓一揆が・・・
寛政4年の事件は結局市右衛門の処刑で一件落着となったわけですが、このような処分になった理由は、5 年前の天明の大飢饉(※5)にあるのではないでしょうか。
天明7年(1787)7月、第七代藩主・建部政賢が参勤交代で不在の最中に、藩内で百姓一揆が起こりました。天明の大飢饉による物価変動などを理由とする一揆でしたが大規模だったため抑え切れず、他の藩の応援を得て何とか鎮圧することができました。百姓一揆は御法度なのでやる側も命がけですが、統治する側も責任を問われるおそれがあります。この時は、林田組大庄屋の三木弥兵衛が責任をとらされ「役儀御取上」の沙汰を受けています。(13年後の寛政12年3月に大庄屋に復帰、なので四ヶ村の農民が藩命に背いた時、三木家は大庄屋ではなかった)
政賢あるいは三木家にとってこの苦い経験がトラウマになっていたのかもしれません。南の村からの分水要請を許可しなかったらまた一揆が起きるのでは、という不安からか分水をやむなく許可しますが、その結果四ヶ村の農民が藩命に背くことに。そして、このことを放置するわけにはいかないことから、単独犯でないことは明らかであるにもかかわらず、首謀者とは到底思えない市右衛門1 名を捕らえることで体裁を取り繕ったのではないでしょうか。
※5 天明の大飢饉:江戸時代中期の天明2年(1782)から天明7 年にかけて発生した飢饉である。享保の飢饉、天保の飢饉と合わせて江戸三大飢饉と称されていて、近世の日本では最大の飢饉とされる。天明年間(1781~89)には連年にわたって飢饉が発生し、特に天明3年(1783)と天明6年(1786)は惨状が甚だしかった。西日本、特に九州は天明2年に飢饉に見舞われたが、西日本の場合、天明年間の前半には収束した。飢饉はむしろ東日本、特に東北地方太平洋側(陸奥国)、北関東一帯で猛威を振るった。

■ モノローグ
『林田郷土誌』には、“義人・市右衛門”と記されています。彼がこの事件の首謀者で、四ヶ村の農民の責も一身に背負って捕らえられたのであれば理解できますが、大勢の農民が関わっているのは明らかなのに、首謀者を詮議するも身分の低い農民・市右衛門を捕らえて幕引きが図られているのは納得できません。当時大庄屋の役儀を取り上げられていた三木家と、三木家の用人でもあった市右衛門、そして藩の間で何があったのでしょうか。
そして、処分を逃れた他の農民はどんな想いだったのでしょうか。さらには、林田川東岸に追放となった市右衛門の家族は・・・。

【参考資料】
1 『兵庫のため池誌』 兵庫県農林水産部農地整備課 昭和59 年3 月
2 『林田郷土史』 林田村教育委員会 昭和30 年3 月
3 『林田の歴史』 出口隆一 平成18 年11 月
4 『林田大庄屋旧三木家住宅』HP
5 『姫路市史第14 巻・別編 姫路城』 姫路市 昭和63 年7 月
6 『戒名の成り立ちについて知る~位号』 よりそうお葬式HP
7 『天明の飢饉』 日本大百科全書(ニッポニカ)
8 『赤穂藩、鵤藩、山崎藩、姫路藩、林田藩、建部政賢、敬業館、天明の大飢饉