地域のため池を探ろう!

地域のため池を探ろう!

今里傳兵衛と新井(しんゆ)

2023年02月19日

 今里傳兵衛は、古宮組19か村の大庄屋で古宮村の庄屋も兼ねていました。承応3(1654)年、播磨国(現 播磨町)のあたりは春から真夏にかけてほとんど雨が降らず、池の水も干上がるほどでした。そのため、田植えはしたものの水がなく、田んぼは乾いてひび割れし、稲はしおれて次々と枯れていきました。わずかにできたお米は大半がくず米で、来年の種もみもなかったため、江戸時代の中でこの年だけは姫路藩も年貢の取り立てをやめています。
 ところが、別府川と加古川に挟まれた隣の地域では、田んぼに稲穂が実りお米が収穫されていました。この現場を見ていた傳兵衛は、五ヶ井の水を分けてもらい田畑に水を引くという計画を立て、水を利用する23か村の庄屋たちを集めました。傳兵衛の絵図による具体的な説明は、庄屋たちの心を突き動かし、全員が陳情書に署名しました。陳情に際し傳兵衛は、「この新溝でもし水が流れないときは、家族もろとも極重の罪科をこうむっても、決してうらみや悔いは抱きません」と早期着工を強く要望しています。
 藩主榊原忠次は、その綿密な計画と身命をかけた熱意に感銘し、直ちに設計をやらせ、新年早々藩の事業として着工させました。藩内から延べ16万4千人(8千人とも)の人足が協力し、わずか1年余で通水を成しとげました。
開通のお礼に参上したとき、藩主忠次は、その功績を讃え傳兵衛の願いを聞きました。その際、「大変な恩恵をいただきながら欲しいものなど毛頭ございません。何とぞ新溝が永代異変なく存続していくよう、それだけを心から願っております」と答えています。
 傳兵衛は、通水して3年後の万治2(1659)年11月12日(旧暦)になくなり、50歳位だったと言われています。お墓は、すぐ近くの古宮薬師堂の墓地にあります。