地域のため池を探ろう!

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五坊谷池(ごぼうだにいけ)

2020年08月03日


(1)所在地  丹波篠山市西紀町坂本

(2)型式と規模
型式 土堰堤
堤高 91m
堤長 8.5m
水面積 4.7ha
貯水量 17,000㎥

(3)かんがい地域とその面積   佐仲大池と合わせて、西紀町と丹南町の一部299.1haの耕地

(4) 築造の経緯
 五坊谷池は地名にちなんで倉本池ともいわれ、丹波篠山市の代表的なため池で、広く市民に知られ親しまれてきた。
 その築造は篠山藩王松平若狭守康信候が高屋村(現西紀町)の住人伯上喜五衛門を代官として工事に当らせ、承応4年(1655)から明暦3年(1657)まで3ヵ年の歳月をかけて完成させた。
 松平康信候がこの池を築造することに着眼したのは、この谷が奥深く小さな沼のあったことなども考え合せたうえのことであろう。現在技術的に検討しても実によい場所を選定したものであると思われる。
 この池によって収穫される米は約1700石余(約255トン)といわれるから、池による恩恵は莫大なものである。

(5) 池の築造にまつわる史話
 池の築造工事は城主の厳命によるもので代官は多紀郡の西郷南郷の村人に労力の賦役を命じたのであるが、人力による突貫工事が3ヵ年にわたったのであるから。この役務の為に命を失う者や重傷を負って不具となる者が続出し、水掛り以外の村人の怨嗟の的となったのは代官伯上氏だった。
 又、五坊谷池敷内には5軒の民家があり立退きを命ぜられたが、この5軒は福徳貴寺(五坊谷池の右岸に接する宮田山の山腹にある飛鳥時代に創建された古刹で天台宗比叡山延暦寺の末寺)の寺田の管理者の住居であったので頑強に立退きをこばみ、先ず我等の生命を絶ちたる上で池を造れと厳しく抵抗したため代官もこの納得には大いに困ったようであるが、血を見ることなく解決した。
 総て斯る大事業の裏面には当事者の命がけの努力と幾多の犠牲者のあることを忘れてはならない。伯上家は今日なお高屋の地に連綿として家系が存している。

(6) 五坊谷池にまつわる雨乞いの方法と史話
 五坊谷池は築造以来300有余年農民の、さらには地域全住民の命の水源として大切に守り継がれて来たのであるが、これらの水源は決して十分なものでなく、一度干天が続けば大きな被害が生じている。なかでも最も大きな被害が出たのは大正13年の大干ばつであった。五坊谷池及び佐仲池は最初の落水を6月13日にし、7月15日に最後の泥樋を抜いた。その間の補水は30日余全く降雨なく、初めのうちは小干ばつと見くびっていた五坊谷池の泥樋が落ちても雨はなく8月2日に至って数日来の雷雲も去り一点の雲もない青空がひろがり炎暑は焼くように室内温度は33度以上となり大干ばつの様相を呈してきた。山田の大部分は、谷水も枯れて乾燥のため亀裂を生じ稲は巻葉の状態となった。
 そのころ五坊谷池を源流とする宮田川の沿岸では処々に換床を設けて水を汲み上げた。当時の農家の心境は何としても飯米だけは確保したいと懸命の努力を払ったのである。
 人事を尽くして天命を待つ、連日千天にわずかに泥鰌の這う程度の番水と、一日に一反半の水を走らす換床に一家の者が全力を注ぐ有様で、唯神仏の加護を祈るより外なかった。そして雨乞が真剣に行われた。
 北河内村を挙げての雨乞は一宮の神火を夏栗山、法蓮峯、本堂山、御嶽の4ヵ所で行い、2000束の紫を焚いた。
 又池郷の各部落でも5~10回の雨乞をしたと村誌に記されている。
 さきにふれた福徳貴寺にまつわる伝説として、同寺に竜の鱗三片が寺宝として保存されているが、誰言うとなく、この鱗を出すと雨を催すとの伝説が残っており、雨乞の守り本尊としても名を成している。

(7) 改修の経緯
 五坊谷池は破損する毎に修理を続けてきたがその記録は残されていない。近年の大修理として次の記録がある。大正6年2月11日起工、池の泥土を上流隣接の沼地等に埋め立て貯水量を倍加し、なお埋立地は耕地整理をして現在は立派な耕地となっている。この工費約12万円と記されている。
 次に昭和27年、中央の木造建樋が破損し、修理困難で危険となったので、東の角に種々の難関を排して近代式のコンクリート造りの樋管に改造の大工事を実施、祖先の偉業を継いで池の完全維持に努めてきたが、最近堤体の老朽化による漏水が多く、昭和56年5月前法中央部が陥没し破堤の恐れがあるため、昭和57年より県営事業(老朽ため池整備事業)を以て改修中で、その概要は表1のとおりである。

(8) 五坊谷池と姉妹池の関係にある佐仲池のことについて
 宮田川の小支流小坂川に佐仲池がある。
 佐仲池のことが記されており、これには
一,佐仲池 東西76間 南北49間 小坂村
一,同新池(注、五坊谷池) 東西47間 南北46間 同村

と記されているのを見ると、佐仲池は五坊谷池より早く築造されていることが想像される。室町の後期天文3年(1534)の築造で、五坊谷池より約120年前と語る人がある。
 五坊谷池との関係は特に深く姉妹池として共通の水管理や池の維持管理を行ってきた。五坊谷池、佐仲池の関係田主は池郷と称し、両池の管理をしている。毎年12月末に関係部落選出の池総代が一堂に会して五坊谷池勘定、佐仲池勘定をして旧石高により各地区の負担を決定し翌年1月末に取立をすることになっている。旧石高とは両池の水配分と水利負担の基礎となるものでこの石高は表2の通りである。
 池郷は従来両池の維持管理費に充てるため池郷田として、五坊谷池八反、佐仲池九反を所有してその小作料を以て運営してきたが、戦後の農地改革により田は買収されその価格は僅少でありその後の維持管理費は農家の直接負担となっている。
(注)五坊谷池、佐仲池築造の両池にまつわる史話等は現西紀町の旧北河内村誌を参考として引用した

(9) 五坊谷池、佐仲池と篠山川沿岸土地改良事業との関係
 五坊谷池が築造されてより300数十年経て、昭和41年、篠山川沿岸土地改良事業として多気郡内2,090haの農地を対象とした大県営かんがい排水事業が計画され、その一環として妹池である佐仲ダムとして生まれ変わった。これによって五坊谷池、本堂の奥深く静かな眠りを続けることができるだろう。
 佐仲ダムのことについては別に篠山川沿岸事業の中で紹介する。