地域のため池を探ろう!

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芦屋市の奥池と奥山貯水池

2021年04月13日

 美しい詩情と、かんがい用水として大切な役割を果たしてきた奥池は、芦屋川の最上流で、西宮市と接した海抜500m以上のところにあり、六甲山のなかで、最も美しく、周囲800m、水面積が3.8haの大きな池である。

濃い緑に映える池面の静かさは、清い空気や風のなかによく調和を保っている。昭和35年6月、池畔にユースホステルが建設され、翌年の9月には芦有自動車道路が開通、39年10月にユネスコ会館が開館し、多くの人々が訪れるようになった。いま奥池周辺には別荘、住宅が建ち、新しいまち芦屋ハイランドも造られている。
 奥池は昭和に入って芦屋市民の上水道の水源地として利用されてきたが、芦屋市の上水道需要に応じるため昭和40年から着工した奥山貯水池が47年6月、奥池の下流隣接地に完成し、いまは奥山貯水池と合わせ芦屋市民の命の綱として、長い歴史のなかで芦屋市民に計り知れない恩恵を与えてきた。
(1) 奥池築造の由来
 奥池から奥山貯水池へ落ちる洪水吐の西側旧堤上に石の祠がまつられていて、そのそばの花崗岩の碑に「天保12年ここ奥山に猿丸安時は治水のため谷をせきとめ辛苦20年余を要してこの池を築造しここに祠を建て水神を祀り末永く池の安全を祈る」と刻まれている。
 昔から芦屋地方の村々は日照りが続くと田畑の水不足に悩み水争いが絶えなった。
 江戸時代の末期芦屋村の年寄りであった猿丸又左衛門安時(1828年~1880年)はこのような争いの原因を根絶するため、天保12年(1841年)から約20カ年の歳月をかけて奥池を築造した。このことはやがて村々の用水不足解決への大きな励みとなった。この池はもと奥山池と呼ばれていた。

(2) 芦屋川筋の農民史
 奥池の築造は、芦屋川筋の農民史を無視しては語れない。芦屋市(1955年編)をはじめ、手元の資料でその概要を紹介しよう。
 芦屋のまちは明治38年阪神電鉄の大坂ー神戸線が開通以来、阪神観の休養地帯として脚光を浴び、大正9年阪急神戸線の開通により、昭和初期(1935年頃)には、阪神観随一の高級別荘地帯としてその地位を確立し、モダンな住宅都市に生まれ変わった。その中にあって芦屋市民の命の綱である芦屋川の水にかかわる悲惨な農民史のことは古い物語として忘れられようとしている。
 水利は農業生産に欠くことのできない最大の条件であり、近世初頭(織田、豊臣時代で1580年以降)以来の新田開発も用水の確保なしには実現できなかった。当地方でみられる用水利用の形態は、芦屋川や宮川の流水に依存した河川利用が支配的でため池利用はむしろこれを補充するものであった。それはまた芦屋地方の農業生産が主として河川の用水に支えられて伸展したことを物語り、早くから用水の利用に関した慣行の成立していたことをも推測される。
 その一、芦屋川水日数定のこと
 芦屋川の用水利用に関する初見の資料は、天正17年(1589年)の『芦屋川水日水日数定』であろうといわれている。当時、この地方では芦屋川の用水利用をめぐる争いがみられた。だが争論は山路庄年寄衆の仲介が功を奏して落着したとある。
 その当時、すでに芦屋川水系に3カ所の用水取水堰が設置されていたことが記されている。このうちの「一の井手」は芦屋川の西側に設けられて川筋の西に在る村々の用水源であったとみられる。この井手は後に東川用水の井手といわれ、本庄5ヶ村(三条、津知、森、深江、中野)80町歩のかんがい用水を取水する重要な取水口であった。川東に設けられた二の井手、三の井手の2カ所は、芦屋川の東に展開する芦屋村の取水口であった。このように芦屋川の流水は3ヵ所に設置された井堰で取水され村々の田地の農凶や村々の盛衰を左右する源流であった。そのため芦屋川の水をめぐる村々間の争論は古くから繰り返されたものと思われる。
 水論の経緯は芦屋市史本編(1955年編)に『村落経済の発展』と題し詳しく記されている。特に争論の経緯と反省から、農民間で従来の水利共同体の結合が解かれて村々が用水利用の面で庄のなかから村としての自立化を果たしたという意義をもっているとし、貞享4年(1689年)の番割り表は自立に果たした記念碑でもあった。特集されている。
 その二、弁天岩と「フカ切り岩」のことについて紹介しよう
 阪神電車の芦屋川駅から芦屋川に沿って北へ約1.5km上ると、芦屋川奥山浄水場がある。ここから上流は川もにわかに細くなって渓流の観を呈している側の道を約1km上ると、道端に弁天岩といわれる大きな岩がでんと座っている。弁天岩の向かいの川の中のごろごろ転がった石の中に、ひときわ大きい岩がある。巨大な長方形、下が細く、上へいくほど広がり、上面は磨いたように平らである。それが「フカ切り岩」である。フカとは、ときに人を襲って食うあの魚のことである。
 「雨ごいの折、私たちの祖先はフカを神に捧げた。いけにえに供されるフカを、この岩の上でさばいた」といい伝えられており、また「まちの農業史は、干ばつとの闘いだったといえる。江戸時代の文政(1818年~1829年)から嘉永(1848年~1853年)の30数年間に、まともに耕作できたのは6,7年ほどしかなかった」ともいわれている。
 日照りが続くと、弁天岩に祈った。弁天さんはもともと河川の化身といわれてきた。その弁天岩に祈ってもしるしのない時、フカ切り神事となった。農民たちは浜へ出て、舟を漕ぎ網を入れてフカを捕らえる。それをフカ切り岩まで運びあげる。
 「流れ出たフカの血を弁天岩に塗り付けた。河川の神をこともあろうに、最も忌まわしいフカの血で汚すわけでそこで立腹された神が、待望の雨を降らすことになる」

 

 まちにフカ切りの図を伝える家があり、この図には天保5年(1834年)8月とあり、その年の日照りは98日間続いたといわれる。
 フカ切り神事は、かつてこのまちが農業と漁業のむらであったことを物語る。農民がにわかに網を入れても、簡単にフカなど捕獲できたとは思えない。当然漁業者の協力を得たであろう。ともに自然を相手にしたもの同士の相互扶助の精神が生きていたの違いない。
 フカ切り岩の話は、朝日新聞に掲載されている「石の声」(1982年3月20日版)を紹介したものであるが、石の声の編集は次のように結んでいる。
 いまやまちは、モダンな住宅都市に生まれ変わった。昭和30年にはそれでも134世帯、30ha耕作していた農業者が、いまは28世帯、9.4haにすぎない。漁業者のほうは、海面埋め立てなどでほとんど姿を消した。

 フカ切り岩のことなどは、知る人ぞ知る昔話である。
 その三、奥池築造の大きい原因となったと思われる「ドビワリ」の水争いについて、芦屋の生活文化史(ー民俗と史跡をたずねてー)にその経緯が掲載されているので、概要を紹介する。
 「ドビワリ」は隣村住吉村との間に起こった水争いの名残りの地名である。
 ドビワリは、図3に見るとおり、芦屋川と住吉川の分水峰である。
 奥池が築造される約20年前の文政10年(1827年)6月、この地方はひどい干ばつに見舞われた。そこで下流の打出、芦屋の村人は水源を調べに川をさか上って行った。シノキ山(現東お多福山)の裏に登った彼らは、西側の谷に、流れを細めたとはいえ住吉川がかなりの水量を有しているのを見た。彼らはさらに奥のおこもり谷黒岩谷と流れ下ってくる住吉川の水を芦屋川へ引こうと謀り峠のところにドビ(土樋)を通して蛇谷に流し取ろうと工事した。一方、急に減水した住吉川の水に不審を抱いた下流域の人たちは川をさか上った、ついにシノキ山の北の峠で土樋を見付けた。知らせを受けた住吉下流の6ヵ村(住吉、魚崎、田中、野崎、岡本ーともに現東灘区内)の村民は激怒した。血気にはやる若者は、ついに峠へ登って土樋を粉々に打ち壊した。
 打出、芦屋の村では大坂奉行所に訴え一応6ヵ村側の謝罪で和解したがなお紛争は続いた。
 それで8ヵ村に関係する尼崎藩の役所と、天領支配を行っていた京都小堀代官所が立合いのもとに仲介者をたてた結果、今後、打出、芦屋の村人は住吉川に流入する谷川から決して引水をしない。ただ此の度の破壊行為に関しては、住吉下流6ヵ村の側から賠償に銀5貫を払うこと。打出と芦屋は、その銀を元にして溜池を築き水不足に備えること。以上の条件で話し合いが成立した。
 奉行所にそれが報告されたのは、文政10年も、日照りの夏をすぎ、木の葉色づく11月のことであった。

(注) 奥池築造の由来、芦屋川筋の農民史にまつわる話は左の文献を参考として引用した
 1.新修芦屋市史本編(昭和30年度)
 2.芦屋の生活文化史 ー民俗と史跡をたずねてー(市教育委員会1979年版)
 3.朝日新聞「石の声」(昭和52年3月20日版)
(3) 奥山貯水池の概要
 芦屋市水道の水源は芦屋川当の渇水期における不規則な流水利用と、高単価な阪神水道から大半の受水といった悩みがあり、さらに市勢の急速な伸長ぶりは水道事業の不安を一層つのらせてきた。また農業用ため池として造られた現在の奥池は古くから市の水源として活用しているが、集水面積が小さいため(約18ha)満水に長時間を要し運用に不便で在りしかも容量が小さく(約8万m3)、水源としては脆弱な貯水池である。
 このような理由から奥山ダム築造を主軸にして第四期拡張工事が敬作された。
 事業の概要は、椿谷と池の谷合流点近くに築く第一ダムと第二ダム、奥池の旧堤改築によって30万m3の貯水池とし、池の谷からの流水と椿谷取水口からの導水(ヒューム管内径1.2m)を貯水する。
 奥山ダムによって年間65万7000m3の原水を確保でき、これを年2回の渇水期に奥山浄水場に送り、渇水期における不足水量を根本的に解消することができる。
 この工事は昭和44年3月に着工し、事業費約5億円を投じて47年6月に完成した。

※ 本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています。