三方池(丹波市)
2021年06月21日
(1) 所在地 丹波市氷上町三方
(2) 型式と規模
型式 土堰堤
堤高 19.8m
堤長 105.0m
満水面積 1.58ha
貯水量 123千立方メートル
(3) かんがい地域とその面積 氷上郡氷上町三方、葛野川流域の水田三3.5ha
(4) 築造の経緯
三方地区は、戸数百戸南奥の谷川から流れ出す自然水を以て、在来水田7.4haをかんがいし、畑は30haを有するが、ほとんどが桑園で養蚕を主に、麦、雑穀、茶、甘藷等を栽培するほか、山林労務に従事して生計を立てている寒村であった。
しかし文化の開発は年々山村にも浸透し、労働条件は昔日の様相を一変するようになった。加えて大正の初期から長野地区を先駆けとして、三原、柿柴、大谷、上新庄地区が相次いで耕地整理事業を行い、一面の桑園は変じて美田と化し、環境も整備されたことも刺激となり、当地区においても新しい用水源の確保と耕地整理事業の要望が盛り上がった。
このときに当たり、三方弁蔵、山口利博、二森太四郎外数名の有力者が相はかり、荒廃した農地を開発し、食糧増産に努め、自給の道を講じ、ひいては離農者の帰郷を促し、もって郷土文化の発展を合図しようと協議決定し、大正九年耕地整理法に基づき、三方耕地整理事業を知事に申請し、認可を得て翌年3月組合を設立した。
本字業は、旧田七・四町と、桑園の開田二29.3町合計36.7町の耕地整理と、南谷3.2町を除く(井堰掛り)33.5町の、かんがい用水を確保するために、新設する三方池の工事が主要なもので、総事業費は12万1000円余であった。
大正10年4月6日総合総会を開催、事業議決を得て同年5月6日に着手し。途中物価の高騰と変更に伴い、17万600円を要し、5ヵ年の歳月を経て大正41年12月20日工事の竣工を遂げたものである。
(5) 工事の概要
ため池用地は、旧生郷村、幸世村、成松町、葛野村(現在は合併され四町村は氷上町)の四町村の所有地、約2haを買収し、工事は直営事業で5ヵ年もの歳月をかけ、県耕地整理篠山出張所の指導監督のもとに築造されたもので、規模は次のとおりである。
(ⅰ) 堤体の規模
堤高 16.5m
堤長 87.3m
天端幅 5.1m
前法 2割5分
後法 2割2分
中心刃金 天端 1.5m
床掘深 4.8m
満水面上余裕高 1.8m
満水面積 1.4ha
貯水量 1.4ha
(ⅱ) 余水吐
余水吐は、右岸部地山に設けられ、石張によるもので放水路については、直径1m以上にも及ぶ野面石が使用されているため、60年を経過した現在でも、狂いはなくほとんど完全な状態を保っている。
(6) 事業に伴う経費
総額 16万6201円
ため池新設 7万3600円
井堰改修 3,709円
道水路溝渠 31,715円
用地買収費 2,729円
開田その他 57,177円
(参考)
当時ため池工事については、2万1,574円(30%)の補助金があったが、他の工事については、兵庫県農工銀行より年利率4分7厘の低利融資により、事業を実施している。
事業に要した借入金については、農家の勤勉な努力により、昭和19年3月繰上げ償還し完済している。その額は、元利29万1,000円余と記録されている。
(7) 改築の経緯
大正14年10月から14年後の、昭和14年に、土地改良事業(食糧増産対策)により、造築(嵩上げ高1.2m)と併せて近接地の開田約1haを追加施行し、換地処分等一切を完了した。
築造後40年余経過した頃より、堤体からの漏水が増加し、用水確保と危険防止のため昭和40年度から46年度までの3ヵ年で、ため池等整備事業により、堤体、斜樋管、余水吐(放水路を除く)と、堤体基礎処理として百十孔のグラウトを併せ実施した。この総工事費は5,500万円である。
更に昭和55年度より、団体営かんがい排水事業により造築工事を実施中である。
造築の根拠については、耕地整理事業で約30haの開田を施行したが、礫室の土壌で保水力が非常に悪く当初計画された用水量では毎年水不足をきたし、農家は自主的に多くの畑乍転換を行うことにより干害をしのぐ状況であった。
このような用水不足を解消し農業経営の安定を図るため、1.0mの嵩上げを行い現況108,000立方mを、123,000立方mに増築するもので、昭和58年度総工事費は4,550万円で完了した。
この大事業を、後の世に伝えるため昭和19年、当地区の氏神大歳神社境内に記念碑(整田頌徳之碑)が建てられている。
(注) 1.記念碑の碑文はページ最下部で紹介する
2.参考資料
・耕地整理事業資料(土地改良区保管) ・氷上郡葛野村誌(昭和44年再編集)
記念碑『整田頌徳之碑』碑文
『当地区は大部分礫質壌土にして常水乏しく戸数100戸、田僅かに八町、畑約四十町歩にして雑穀、茶、桑等を栽培し畑地の各所には猪鹿垣墓地等散在し、放任の老桑繁茂し、道路狭隘、交通極めて不便、古来住民の大部は移入米に依り生活をなし養蚕を主業とせるも収支償わず他郷に転出するもの続出し、郷土愛の精神漸く薄きを加え農政風教上憂慮するの状態なりき。
識者茲に視るあり、有志相謀り荒廃せる農地を開発し迂曲屈折せる道水路其の他の障害を除却し水利を完備し区画を整然たらしめ、其の便益を図り大いに食糧の増産に努め之が自給の道を講じ、離農者の帰郷を促し、以って郷土文化の発展を企図せんとし、大正九年耕地整理法に基き、之が起業方本県知事に申請許可を得、整理前地区総面積四一町反、総事業費121,000余円の設計成り、翌十年三月創立総会を開き三方耕地整理組合を設立す。
中途総事業費を170,000余円に増額変更す灌漑用溜池工事は直営五ヶ年に亘り、県当局の指導監督の下に施工し、其の敷地面積二町歩、水面一町四反歩、提塘延長四八間、水深平均二一尺、貯水量18,000立坪、所要工費73,600余円を要せり。
而して南谷井堰、道水路改廃、開田地均等主として低利資金の借入により逐次施工し総事業費一六六、二00余円に及べり。大正十四年十月二十日の竣工を遂げ溜池に弁財天を安置し当日氏神社頭に於いて成功の式典を挙行せり。
其後土地改良事業により溜池築堤四尺の嵩上げ工事並に隣接地の開田約一町歩を施工し事業終了直後換地処分登記等一切の事務を完了す。而して之が負担は年賦金を定め報徳精神に遵い一同融合献身的努力により事業費及借入金元利合計291,000余円の年賦償還を為し、昭和十九年三月完済す。
開田総面積二六町余反歩、区画整然、耕耘の便頗る大にして亦昔日の比に非ず。食糧の自給を確保し住宅の幸運大なるものあり。
希くは神明の加護により後世永く郷土の隆昌を祈念し併せて関係当事者の恩沢に酬いんことを期し、記念のため建碑するもの也。昭和十九年五月三十一日 三方耕地整理組合