地域のため池を探ろう!

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入ヶ池

2021年04月21日

(1) 所在地 加古郡稲美町北山
(2) 型式と規模
      型式  土堰堤
       堤高  4.8m
       貯水量  379000m3
       満水面積  19.9m


(3) かんがい地域とその面積
 稲美町の中では早くから開発されら曇川沿いの北山村を中心に、約80haをかんがいしている。
(4) 築造の由来
 北山の「川上真楽寺縁起(しんぎょうじ)」による池築造の由来は次のようである。  皇極天皇の3年(644年)のことであった。大和の国の人で、藤原弥吉四郎といって朝廷に仕えている人が、勅命を受けて西国に行く途中、蛸草村(稲美町)の地で一人の老人に出逢った。老人は「この野を開けば必ず末代まで繁昌するであろう。お前がここを開墾してみるがよい」と言い捨てて姿が見えなくなってしまった。
 弥吉四郎は西国で君用を滞りなく済まし、大和に帰ってさっそく大君に申し上げ、お許しを得て喜び勇んでこの地へ再びやって来た。そこで北四郎と北大という二人と語らって開墾に取りかかった。そしてその年の3月5日に初めて種を蒔き稲の仕付けにかかった。幸いに地味もよく手入れも良かったので稲村は大変よく出来た。それから2年後、初めて米一石分の稲束を上納することができ、柴15杷も合わせて献上した。この有様を見て他の土地からも人々がやってきて、54年後の大宝元年(701年)頃には家数も増えて16軒になり、年貢米2石分の稲束と柴25杷が上納できるぐらいになった。ところがこの年、春は雨が降ったものの、夏になって日照りが続きに続いて田に入れる水が乏しくなった。これまで田に入れる水はこれを流れる谷川から引いていたのだが、自然に任せていたのでは間に合わない。そこで谷川を25町(約2.5km)ばかり上がっていくとそこに広い谷がある。そこにはすでに前年から用水を溜める池の築造にかかっていた。しかし折角築いた堤も大水が出て切れてしまったので、翌年も春になってまた前通り築いたが、半分もでき上らないうちに不思議や雨も降らないのに水が出て堤が成就しない。これでは人力に及ばぬこととそのままにして打すてて置いた。


 かくして空しく10数年という月日が過ぎて和銅7年(714年)となった。それは奈良朝もまだ初めの天明天皇の御代であった。藤原弥吉四郎の孫の光太衛という人がこの年の2月2日のこと、夢の中である不思議な僧に出逢った。その僧がいった。「汝の祖父は土地を測量して川の上流の谷を堰き止め池を築いたが成就しなかった。これは考えて見ると、上流からの掛り水が強いからで、たといどんな堤を築いても成功は覚つかないだろう。それ故築き方に特別の工夫を凝らして、堤を六枚屏風の形にし、北方の山際の堤の所にうてみ(排水口)をつくって水を越させるがよい。堤を築く工事中に一人の美女が通りかかるだろうから、その女を捕らえて人柱とすれば池は完全に仕上がるだろう。」夢から醒めた光太衛は霊僧の告げに従い、今度こそはと成就させたいと村人たちを集めていよいよ池の築造にかかった。3月18日であった。20数日が経って4月12日、案の如く一人の美女が通りかかった、そこで直ちに切り伏せて堤の柱とした。かくて出来上がった池はその後全く切れることがなかった。その女は名を「入(にゅう)」といったので、その名をもって池の名とし「入ヶ池」と名付けた。その池の掛かりには谷川が三筋ある。南谷、中谷、北谷という。

南谷、谷形が150間(270m)ほど、その奥は知れない。
中谷、谷形が1800間(3270m)ほど、奥は知れない。
北谷、谷形が750間(1360m)ほど、奥は知れない。

 この中谷は、養老3年(719年)大雨が降る時、村長(むらおさ)が池の様子を見に行くと、谷一面に満水している。見ると池の外の堤の形ができて、そこにも水が一杯湛えられて波打っている。そこで池の北側の山際の堤を切ると半日の間に水は半分に減った。するとあやしや、池の外の堤は最早見えない。池は満水している。そこを外波谷川というようになった。また、この北谷の北に白雉(はくち)年中(650年~654年)に建てられた寺があり「野寺」といった。
天平10年(738年)4月の中頃のことである。村人が野寺から入ヶ池の北方を回って帰る途中、この北谷で変化の者に出逢った。姿は女で、身の丈六尺余(2m)で目は丸く毛が赤い。村人が驚いて馳せ戻ろうとすると、その変化が呼び止めて言うには「わが姿形は鬼であるが実はそうではない。去る和銅7年(714年)4月12日、池の堤の柱となった者である。私は元この山中に500余年住み慣れた蛇である。人がたくさん集まって仕事をしているのを見て、姿を変えて美女となって行っていると、思いがけず堤の人柱として切り伏せられた。その時はいかにも残念で怒りが湧き上がった。けれども今となっては、そのために池が立派に出来上がって、人々はその恩に感じて限りなく喜んでいる。その後私の魂は離れることなくどこへでもこの姿で現れる。変化の世界から離れることができないからである。お前は里に帰りこのことを人々に語り私の荒ぶる心を鎮めて欲しい。そうすれば私はいつまでも池を守り続けるだろう。村人はいつまでも安らかに栄え続けるに違いない。」こう言い捨てて変化の者はどこかへ姿を消してしまった。村へ帰ってこのことを物語り、菩提を弔うために、池の水の流れを行く谷川のほとりの地を選んで、12日を忌日としてその霊を祀り、「川上真楽寺」と名付けた。このことがあってから北谷を鬼川原と名付けるに至った。以上が入ヶ池の由来であり、また、北山村の発祥をも示しているものである。
 昭和53年2月、この池の改修の時、南提中樋の付近より分切石および敷石1個が発掘された。これは享保7年(1722年)6月の古文書に、「当時、分切石18個、敷石9個を27名の村民が下西条山より運び来たって据え置いた」とあり、その中の各1個であろうと推測される。この分切石には「享保七寅年御願申忌え 分切」と刻まれている。これは、「御願申す、これを忌みたまえ 分切」と読むのかと思われる。分切石が押し流されぬよう水神に祈る意味で書かれたのかと思われる。
(5) 近年における改修工
 入ヶ池の築造は古く、その後も何回か修築されていると思われるが、甚だしく老朽化し危険な状況となったので昭和52年より54年にかけて「ため池等整備事業」により大改修が行われた。それを記念して大記念碑が建てられ、また、これを機に築造以来の多くの先人たちの遺憾を偲ぶために碑の傍らに祠を造り頌徳碑を建てた。
改修工事の概要は表1のとおりである。



※ 本文は、「兵庫のため池誌」(昭和59年発行)第四編各地のため池築造の歴史から一部加筆訂正して転載しています。