地域のため池を探ろう!

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寛政池(神戸市西区岩岡町)

2021年06月16日


(1) 所在地 神戸市西区岩岡町秋田
(2) 型式と規模
     型式 土堰堤
     堤高 10.0m
     堤長 264.0m
     貯水量 182000m3
     満水面積 6.8ha
 (注、池の規模諸元は、昭和44年完成した、老朽ため池整備事業完了概要表によった)

(3)かんがい地域とその面積 明石市魚住町中尾、西尾地区75.0ha(長谷池、大池、皿池の予備池)
(4)寛政池築造の由来
 寛政池築造については第三編第一章第一章印南野台地開拓の沿革の「庄内用水と寛政池」が、さらに詳しく、明石市史(上巻)から引用して紹介しておく。
 明石藩領西浦辺組西嶋村、中尾村、森林の3ヶ村には、かんがいため池として長谷池、大池、皿池の3つの池があるが瀬戸川から取水していた庄内掘割と林崎掘割から引いた大久保堀割のとちらも水路の末端になるため、用水は十分でなかった。
 そのため村々の間で度々水争いが起こっていた。明石藩ではこれらの水争いを和解する手段として新池を造ることにし、寛政12年(1800年)正月、3ヶ村に対し計画書を郡代所へ提出するように命じた。
 その前年11月末、西嶋村庄屋の卜部太郎兵衛は、森村庄屋西海六右衛門、中尾村庄屋丸尾徳兵衛やその村の年寄、組頭とともに大工を連れて、瀬戸川の上流清水河原に新池築造の候補地を下調査していたので、ただちに次のような工事計画を立てた。
 新池築造予定地の瀬戸川は、川幅が50m、岸の高さは3mである。この川を河床部で36m、高さ4.5m、堤長58mの土堰堤を築き、現河床を3.6mを掘り下げこれを試験用の堤体として漏水試験を行う。この形体で合格すれば本堰堤をこの上流に築造することにした。古文書に記されている諸元から想像すると図3のようなため池だったと思われる。ため池の諸元は次のように記録されている。
 高さ3.6m(注、川岸の地盤からの高さと思われる)、堤高は床掘深さも加えて、9.3mとなる床掘の深さ2.7m、堤体の延長180.0m。このときの貯水量は約14万9000m3とあることから、新池敷は周辺の既耕地を買収して水没させたものと考えられる。ちなみに、いまの寛政池の満水面積が6.8haあることからその広さが想像できる。
 新池築造工事の費用については、当時藩領内には早損(かんそん)(でん)(干ばつの年には水田として耕作できない田)や、洪水で流された田が多く、窮迫した藩の財政だけではとても着手できなかった。藩ではその前年の秋、領内の富商、豪農18人の協力によって1万両の寄附を得たので、この金子をもって新池の工事を施工することになった。またこの工事人足は、28,488人でそのうち、7,122人は村人足を使用する、と計画書に記録されている。
 (注)※ 当時(1800年)の1万両の貨幣価値について(米の価格から換算)
 寛政12年(1800年)の資料はないが、24年後の安政7年(1824年)の記録によると、金1両は銀64.5匁であり、米1石(150kg)は銀74.5匁であったといわれている。いま米1石(150kg)4万5000円とする。と、金1万両は約3億9000万円となる。(資料は石川県富樫用水に記録によった)

 もとから池区内にあった長谷池、大池、皿池がかんがいする耕地は、西嶋、中尾、森、長坂寺の4ヵ村で77町であるが、抵塘を2.7mないし0.5m嵩上げすることにより、上記3池のほか、野々池の4池に合計5万3000m3の貯水量が増加し、約79町歩にかんがいできる計画書ができたので、3ヵ村では大庄屋田中源左衛門を通じて郡代官に出願した。
 藩ではこの設計を許可し工事計画は多少変更して寛政12年(1800年)4月16日から着工した。
 工事は尾張から来て垂水で働いていた嘉右衛門、太右衛門が請負い、床掘は1坪が7匁、堤防1坪は6匁の契約にした。
 ところが工事予定地を試し掘りすると、砂利砂地で不適当であったため、候補地を150~160m上流に移し、堤体約18.030m3、床掘約3,070m3の工事費は銀21貫550匁で契約した。
 (注)銀1貫はさきの米価換算値で約60万円程度と考えられる
 その他に秋田村の田2.15アール(代銀560匁)と、年貢山0.2ha(代銀60匁)を買い入れねばならなくなった。
 「工事費銀21貫余のうち2割5分にあたる5貫387匁5分は村の負担、ほかに1貫目は冥加(みょうが)(きん)(神や仏のみようがを祈って奉納する金)とすることになった。従来の慣例では、池普請などの場合雑用のほかに、工事費と人足との2割5分は地元負担であった。
 しかし今度は非常な大工事であるため、農民は雑用のほかは藩から貰えるつもりでいた。
 工事費のほか、田地と山林の買収費に銀2貫目、樋作成費等に8貫目余りがかかり、ことにその年の麦は大不作のため困窮しているので、銀札3貫目、15年賦、無利子で藩から借用を受け、新中田2.5アール、山0.2haを買入れた。
 工事は順調にすすみ、6月25日には全工程の6割5分まで進行した。樋は13ヵ所に設置した。長さはどれも36.8mであった。」と、寛政池築造記録にある。(寛政池水利組合蔵)
 工事は8月2日から再開し、11月18日にようやく竣工した。この間、夏は大暑のため人足中に病人が続出したため、他国で働いている人足を呼び寄せるなど思わぬ費用がかかったので、1000人の人夫賃と食糧費の公費支出を出願して許可せられ、銀礼1貫500匁を得たとある。
 この新池は寛政12年に竣工したので「寛政池」と命名された。
 その後も後築、壁入、笠置、床掘、敷地田地の購入などをして寛政池の補強に努力した。
(5) 寛政池の水利慣行、水論等について
 清水村の池之内、沖代、塚脇の水田八町歩は従来の清水川の水で養っていたが、寛政池が川をせき止めたため、干ばつの時は完成した寛政池の水を抜き下すことに決めている。
 寛政池が完成した9年後の文化6年(1809年)には、池上流の秋田村との間で水論があったことが記載されている。
 最近では昭和10年にも秋田村に対して訴訟がおこり、昭和18年12月28日までかかってついに調停裁判になった。
 寛政池の反別は22,583坪(7.45ha)と記されているが、この場合の反別とは満水面積で、水没は堤体敷等を含めた面積のことであろう。
 昭和2年8月13日に寛政池から長谷池まで水先が着くには4時間20分かかった。(水路の延長は約8kmであるから、掘割を流れるときの流速は、毎秒0.5mの速さであった。
 このとき、13日午後1時10分に樋を抜き取ってから、水が出切ったのは6日あとの19日午後5時5分であった。
 明治26年の夏はきびしい干ばつのため、他の村々では水飢饉に泣いたが、西嶋、森、中尾の3ヵ村では少しも困らなかった。
 村民は、改めて寛政池の偉大な恩恵を知った。翌27年4月、有志の人たちは大池の北側に寛政池紀行功碑を建てて、先人の功績をたたえた。
 
撰文者亀山雲平は、つぎのように銘した。
こうそうたるその山 
おうようたるその水
そそぎて涸れず   
三村ここによる
惟れ誠
惟れ実
以ってこの項をなす
寛政の池      
遺沢窮まり無からん
(注) 寛政池築造の由来、水利慣行等については、明石市史(上巻、昭和35年3月版)の寛政池の項を引用し、参考とした

(6) 改修の経緯
 約180年余年前に築造された寛政池の堤体は、その後嵩上げや、改修されていると思われるが、改修の記録が残されていないため不明である。
 最近堤体の老朽化が進み決壊のおそれがあるため、昭和42年度から3ヵ年をかけて、老朽ため池等整備事業により、県営事業として大改修された。その概要は表1のとおりである。